カノッサの屈辱 Canossa
神聖ローマ帝国では諸侯の権力を抑えるために皇帝に直属する教会・修道院をその支柱としていく政策がとられていくが、その任免権は皇帝にあり、それは皇帝の全国支配にとって大変重要なことであった。11世紀に高位聖職者の叙任権をめぐり教皇との間に闘争が起こる。ローマ教皇グレゴリウス7世は教会の自由と世俗君主からの解放を求め聖職者の任免権を教皇を頂点とする教会の中だけで確保しようとしていた。
1075年皇帝ハインリッヒ4世は公会議での取り決めを無視して、ミラノ大司教の叙任を強行する。そんな皇帝に対し教皇は書簡を送り、破門と廃位の脅しをかけてミラノ大司教の叙任撤回を強く要求するが、皇帝は逆に全ドイツ司教会議を招集し、教皇の廃位を決議する。教皇は皇帝を破門し、もはや誰もハインリッヒ4世に服従する必要がないと宣言する。
皇帝ハインリッヒ4世はそれまでの皇帝と同様、有力諸侯の勢力をそぎ、王権を拡大することに力を注いできた為、諸侯との争いが絶えなかった。そんな中で皇帝はドイツ諸侯の支持に確信がもてず、廃位されることを恐れて北イタリアのカノッサ城に滞在中の教皇を訪ねた。
1077年の冬のさなか、皇帝は城の外でただ一人粗衣をまとい裸足で3日間雪の中に立ちつくし教皇の許しをこうた。教皇は頑として許す気はなかったが城の女城主とクリュニー修道院長の取りなしによりこれを聞き入れ、破門を解いた。
破門を解かれた皇帝はすぐにドイツに戻り味方を結集して反対派の諸侯を攻めた。教皇は再び皇帝を破門するが効果なく、1083年皇帝によってローマに包囲されてしまう。その後教皇はシチリア王に助けられたが、結局サレルノに退き失意の内に亡くなった。
一方の皇帝ハインリッヒ4世はその後の教皇ウルバヌス2世とも対立し、諸侯の背反に苦しみ、長男コンラート、次男ハインリッヒにも背かれ1106年捕らえられて退位し、まもなく50才の生涯を終えた。