フランクフルトの地名の由来


フランクフルトの地名は794年の記録にフランコンフルドとして記されている。これはフランコ「フランク族」とフルド「渡渉点、渡船場、浅瀬」を合成したもので「フランク族の渡渉点」を意味する。
伝説によれば800年頃フランク人の頭であったカール大帝は当時このあたりに住んでいたザクセン人をカトリックに改宗させようとし、その抵抗にあい戦いとなった。カールは戦闘で敗退し、従者とマイン河畔にたどり着いたが、あたりは霧に包まれて見通 しがきかない。困り果てたカールが神に祈願すると、一瞬霧が晴れて一頭の白い雌鹿が子鹿をつれて現れ、先に立って川の浅瀬を渡った。カール達が川を渡り終えるとまた霧がかかり、ザクセン人は追ってこられなかった。カールはその場所をフランク族の渡渉点であるフランクフルトと呼び、王宮を建てることにした。またカールはザクセン人を征服するとその部族民の一部をマイン左岸の場所に強制的に移住させた。これが現在のザクセンハウゼン地区の由来と言われている。

この渡渉点はライン川上流部とドイツ平原を結ぶ交通 の要でドイツにおける代表的な自由通行路でもあった。そのためフランコフルドは「自由通 行路」を意味する代名詞と考えられるようになり、ほかの地名にも転用された。このように生まれた同名の都市、旧東ドイツのオーデル河畔にある、フランクフルト・アン・デア・オーデルと区別 するため、ここはマイン河畔、アム・マインが地名の語尾につけられ、その最古の記録は1310年のものである。



フランクフルトの歴史年表

AD.1c

ローマ軍団が現在のドームがそびえる小高い丘に基地を建設。当時はマイン川と、これに注ぐ小川(後に埋められた)に囲まれた中の島だった。戦後の開発により、床暖房をもつ蒸し風呂と熱風呂が発掘され、100人〜130人の兵士が駐屯していたと推定される。現在その遺跡はフランク時代の王宮や礼拝堂の遺構とともに考古学の庭として保存されている

3c

アレマン族が侵入し、ローマ軍はライン左岸に撤退した。

5.6c

フランク王国メロヴィング朝の創設者クロードヴィッヒ(クローヴィス)1世は498年にカトリック教に改宗し、500年頃アレマン族に戦いを挑み大群を率いてマイン川の浅瀬を渡り強敵をこの地から追い出した。「フランク族の渡渉点」を意味するフランクフルトという地名はその戦闘に由来するという。マイン川の中の島には王宮が建てられ王国の重要な拠点となった

8c

794年に初めて文書資料にその名前が記された。その記述によれば、カール大帝はヨーロッパ全土から聖界俗界の高位 者を招きフランクフルトの王宮の広間で王国、教会会議を主宰した。この会議によりカール大帝はカトリック教会の庇護者として独自の立場を示し、800年に行われたローマでのローマ皇帝への戴冠の道を開く

9c

カール大帝の死後フランク王国は3つの地域に分裂してしまい、843年に今日のドイツのもととなる東フランク王国が誕生。フランクフルトは王国統治の中心地となる

10c

フランク王国は崩壊し、東フランク王国を継承したドイツ、イタリア、ブルクントの領域に神聖ローマ帝国誕生。フランクフルトの王宮はあまり利用されなくなり焼失した。再び脚光を浴びるのは、12cのシュタウフェン朝時代になってからである

12c

1152年フリードリッヒ・バルバロッサが国王に選ばれ伝統的選挙地となる。同じ頃マイン川に最初の橋が架けられ、王城が築かれ、国王都市*が成立した

13c

市内の広場では毎週市が立ち、日常品の交換が行われた。秋の定期市など大きな市が開かれるようになり、様々な商品が取引される大市(メッセ)に発展した。大市は近代にはいると商品見本による取引が大勢を占め「見本市」と言われるようになる

14c

1356年カール4世の黄金文書(金印勅書ともいい、皇帝選出の7代選挙候の決定)が発布され、フランクフルトで選挙、アーヘンで戴冠式、ニュールンベルクで新国王の最初の帝国議会を開くのが慣行となった。
フランクフルトの大市は地中海地域と北海・バルト海地域を結ぶ南北交易の中継点となる

16c

1562年マクシミリアン2世がフランクフルトで国王に選ばれ、続いて戴冠式も同じ場所で挙行された。アーヘンで戴冠式を執り行う大司教が死去し、冬の悪天候の中選挙候たちの移動が懸念されたからであった。これがきっかけとなりその後も経費と時間の節約から2つの儀式はどちらもフランクフルトで行われ、1792年の神聖ローマ帝国最期の皇帝の戴冠式まで続く

17c

1618年-1648年 30年戦争 当初は帝国内部の宗派の抗争であったが、長引くにつれ諸外国が政治的利害や領土的野心から軍事的に介入し、ヨーロッパ最大の宗教戦争となった。ドイツでは軍隊の戦闘ばかりでなく、略奪、暴行、放火によって被害が著しく、特に農村は荒廃した。フランクフルトはしばしば困難な局面 に遭遇したが、中立政策を維持し、富の力によって破滅にはいたらなかった。

18c

1744年 マイヤー・A・ロスチャイルド*、ユダヤ人ゲットーで誕生(〜1812)
1749年 ゲーテ生まれる(〜1832)1775年ワイマールへ赴く
1792年 最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世戴冠

19c

1813年 ナポレオンの支配より解放される
1848年 パウルス教会にて国民議会開かれる
1866年 プロイセン軍、市を占領. 以降プロイセン都市となる
1871年ビスマルク、フランクフルト平和条約結ぶ. 普仏戦争終わる(1870〜)
産業革命、市の建設、開発が進む

20c

1914年 フランクフルト大学創立1933年 ナチ政権による市政開始
1939年 第2次世界大戦(〜1945)ユダヤ人の強制輸送
1944年 フランクフルトの大空襲 ゲーテの生家など旧市街の大半が焼失
1946年 戦後初の市議会選挙、社会民主党(SPD)政権生まれる
1977年 戦後初の保守政権成立(CDU)
1990年 東西ドイツ統一 EC,フランクフルトを将来のヨーロッパ中央銀行設置都市に決定

*:注釈
国王都市
:国王都市は中世に入って王宮、王城などを核として成立し国王の統治の中心となった。これらの都市は13c中頃の大空位 時代から自立性を高め、帝国都市と名乗るようになる
大空位時代:シュタウフェン朝の血統が絶え、諸侯が抗争する、いわゆる皇帝不在の時代(1256-73)フランクフルトは自衛し、治安の維持、商品取引を確保するため都市同盟を結ぶ。このころ参事会の名称が初めて文書に記され、市民の自治的な立法行政機関の出現を示している
ロスチャイルド:(ロートシルト)の登場によりフランクフルトの銀行は経済界を支配した。彼の5人の息子「フランクフルト5人衆」は、パリ、ロンドン、ウィーン、ナポリに支店を築いた

人名・項目についてはドイツ辞典も参照ください。