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この城は1300年に起工されて以来ライン・プファルツ選帝候であるヴィステルバッハ家の居城として代を重ねながら拡張されてきた。代々の王がその時々の流行の建築様式を取り入れ、出来上がった建物に自分の名前をつけている。王の権力の象徴であり、同時に彼らの芸術意識の表現でもあった。1622年には30年戦争で、城も町も旧教側の軍隊によって破壊され、1689年にはオルレアン継承戦争でフランス軍の砲撃と火薬を仕掛けての爆破により見る影もなく破壊された。現在も残る破壊の跡はこの時のもの。その後、改修工事が行われていたが、1764年に落雷によって工事は中断されてしまう。幸い第二次世界大戦では戦火を免れ、いにしえの姿を伝えている。今は州政府の持ち物として管理、運営されている。
■ゲーテ記念碑
ゲーテはフランクフルトで生まれ、ワイマールで83歳の生涯を閉じた。亡くなるまでに8回ここハイデルベルクを訪れ、詩を読んだり、絵を描いたりしている。この石碑には、恋多きゲーテの最後から二番目の恋人マリアンヌが、ゲーテに対して書いた詩が刻まれている。「彼は虹のようなここを去り、ゲーテとの出会いはその虹のようにはかなかった」マリアンヌは16歳まで舞台に立って踊っていた人で、その後、銀行家と結婚した人妻だった。当時ゲーテは66歳、マリアンヌは24歳だった。ゲーテも又別の詩で「私はここで愛し愛され、幸せだった」と詩っている。この石碑は二人の愛を記念して後からつくられたもの
ロンデルから眺めて、左手に見えるゴシック様式の教会は15c後半に建てられた聖ペーター教会。大学の教会とされている、プロテスタントの教会。塔の一部は12世紀のもので教会の墓地には15c〜19cの著名な教授や、宮廷の役人、市民の墓がある。
■ディッカー・トゥルム(太い塔)
左右に二人の人物が立っている。左側の人が、ルードヴィッヒ5世。日本の室町時代の頃(1533年頃)の人で、防御用の城としてこの城を建てた人(主要建造主)。この塔は壁の厚さが7mもあり、外からは壊されなかったが、オルレアン戦争の時にフランス兵により壁の内側からの爆破にあって壊されてしまった。上部には500人収容の劇場ホールがあった。
右側の人は、冬の王と呼ばれたフリードリッヒ5世。1610年頃、日本の江戸時代初期の頃の人。彼はイギリスから16歳のエリザベス・スチュアートを妃として迎えた。彼女のためにこの城をロマンチックなものにした。塔の右手にある窓のたくさんある建物は英国館と呼ばれ、お妃のために造られた建物。庭には大砲がいっぱいあったが、お妃の散歩用に造り変えられた。フリードリッヒ5世は、1618年ボヘミア、今のチェコのプラハへ王として移ったが、翌年「白い山の決戦」においてカトリック軍に攻められ、追放され、オランダの方で亡くなった。これをきっかけに宗教戦争が始まり、プファルツの領土はバイエルン公によって宗教戦争の終わる1648年まで管理された。1700年頃に改修工事が行われたが、雷が落ちて火事になり、工事は中止された。1610年頃がこの城の一番栄えた頃。
■エリザベスの門、 別名「一夜の門」と呼ばれる。ルードヴィッヒ5世が、妃エリザベスの為にたった一晩で作り上げた門。この庭はエリザベスのお気に入りの散歩道で、彼女は毎朝ここを歩いていた。誕生日の朝、いつものように散歩をしていると、昨日までなかった門があり、それが妃を驚かせ、喜ばせるために造られた王からの誕生日プレゼント。この時代の政略結婚としては珍しく、大変仲のよい夫婦だった。この門をバックに写真を撮ると、そんな二人にあやかり、幸せになれるとか。門は鉄分の多い、赤色砂岩で作られている。赤色砂岩はこの辺りで多くとれた石で、そんな石で作られた建物が多い町は、全体が赤っぽい色に染まっている。
庭と城の間の深い堀は、平和な時には鹿を放し飼いにし、戦争の際には水で満たすことができ、山側からの敵の攻撃に対する防御となっていた。
■堀の上にかかる石橋は昔は、はね橋だった。城門塔の壁に鍵穴のような形の穴が残っているが、はね橋を吊っていた鎖の穴の跡。この城門塔は堀の底からそそり立っていて、高さは52m、塔の地下には牢獄があった。入り口の上部の2階3階は、防御にそして4階は門兵の住居として使われていた。槍を持った二人の兵士の像とその間に獅子の像が残されているが、この獅子はヴィステルバッハ家の紋章が付いた黄金の盾を持っていた。現在ハイデルベルク大学の紋章として使われている剣と十字架である。この盾はナポレオン軍によって持ち去られ、今はどこにあるかわからない。
城門に向かって右側の橋の欄干の上にゲーテの名を刻んだ、一枚のプレートが埋め込まれている。ゲーテは34歳の時、スイス旅行の途中にハイデルベルクへ立ち寄り、この場所から城の右手に見える「崩れた塔(15c)」の写生をしている。プレートはそれを記念して埋め込まれたもの。ゲーテとハイデルベルクのつながりは深く、ゲーテは滞在中にはよくこの古城へ散歩に来ていた。「崩れた塔」はかつての火薬塔だったもの。壁の厚さ6.5m、直径24mでオルレアン戦争の時にも、もちこたえたが、その4年後大量な火薬を貯蔵した結果、塔は二つに裂け、外側の壁は堀へ落ち込んでしまった。文豪ゲーテがこれをスケッチしたことにより、皆実物を見るためにハイデルベルクへやって来る、町の観光の火付け役になった。
■魔女の噛み輪、向かって左側の扉の鉄の輪。伝えによれば、この門を造った時、あまりの丈夫な門構えに自信を持った当時の王が、「この鉄の輪を噛み切った者がいれば、その者にこの城を明け渡す」と布告をだした。我も我もと大勢の者が試みに来たが、誰一人として噛み切ることはできなかった。最後に魔女の番となりガブッと一噛みして、噛み跡を残した。
この場所で上を見上げると(橋を渡ってすぐの所に)、先の尖った格子状の門がその先端をのぞかせている。堅固な防御の城であった当時の姿が、うかがい知れる
■中庭を取り囲む建物の説明
●<ルプレヒト館> 中庭に入りまず左手にあるのは、この城で一番古く、今から600年ほど前に作られたルプレヒト館。建造にあたったルプレヒト3世の印である、帝国の鷲の紋章がその入口の左側に残されている。ルプレヒト3世は旧市街にある聖霊教会(ハイリッヒ・ガスト教会)の起工者でもあり、どちらも当時流行のゴシック様式を用いている。(城内部の見学ツアーはここから入いる。)
●<蔵書館> ルプレヒト館の右には、図書館があった。ちょっと引っ込んでいるファサードの2階部分には、ゴシック風張り出しが残されているが、かつては4階建ての建物だった。2階部分には高さ6.5mの星状の天井をもつ、宴会場があった。
●<女官と王の間> 屋根のある平屋建ての建物。今は存在しない2階、3階部分は女官や家臣達の住まいとして使われていた。1階は時代によって、馬上試合の競技場として使われたり、彫刻工房や宴会場、又ワインの大樽を作る工房として使われた。30年戦争で破壊され修繕されたが、オルレアン継承戦争の際、再び破壊されてしまった。1764年にカール・テオドールによって屋根がつけられ、現在王の間として、500人収容の劇場ホールや催し物会場として利用されている。
●<フリードリッヒ館> 正面のルネッサンス風建物。1607年にフリードリッヒ4世によって建てられて以来、代々の選帝候達の住まいとして使われてきた。ファサード(正面の装飾)の黄金の砂岩で作られた立像は、建造主フリードリッヒ4世並びに、彼のヴィステルバッハ家出身の有名な祖先達。等身より少し大きめで、現在置かれているのはコピー。オリジナルは風化から守るため城内に保存されている。下から2段目の一番左に立っているのは、ハイデルベルク大学を創設した、ルプレヒト1世。同じ段の一番右に立っているのは、隣接する、鏡の間や右手に見えるオットーハインリッヒ館の建造主の、オットー・ハインリッヒ。彼は大変な肥満で、城の中を行き来するのも大変だった為、右手のオットーハインリッヒ館には、1階にあった彼の居室と謁見の間へ入るための階段が表に作られている。その下(最下段の一番右)に立っているのが、この館を造ったフリードリッヒ4世。彼は大酒飲みで、残された彼の日記には「昨日は酔っぱらった。どうやって寝床にたどり着いたんだ。どうも又ぐでんぐでんに酔っぱらってしまったらしい」と残されており、30歳のフリードリッヒはよぼよぼで杖をつき、6年後には死に至っている。
●<鏡の間> 日時計のついた細長い建物とその右側の渡り廊下、階段塔からなる建物は、鏡の間の塔と呼ばれる。左のフリードリッヒ館、右手のオットーハインリッヒ館を、調和よく結びつける、初期ルネッサンス様式。(ゴシックとルネッサンス様式が調和よく混合されている)かつて2階部分にベネチア製の鏡をはりめぐらせた宴会場があった為に、鏡の間と呼ばれる。残念ながら1764年の落雷により、3日3晩燃え続け、隣接するフリードリッヒ館まで飛び火し、1階の礼拝堂を残し殆ど全焼してしまった。
●<オットーハインリッヒ館> 城の中で一番印象的な建物と言われる。宮殿風ファサードは、ドイツルネッサンス様式の模範建築と言われ、ヨーロッパ各国のルネッサンス様式の様々な要素を、芸術性豊かに統合している。1階はドーリア式、2階はイオニア式、3階はコリント式の柱を用い、5つの部分に分けている。分けられた各々には、2つの窓と、窓の間に像を置くための引っ込み(ニッシェ)がある。各階を仕切る巾広い蛇腹帯は、水平線を強調し建物全体を引き締めている。1階の窓は十字架で4等分され、上部に切り妻風三角形の装飾が施されている。正面入口は、凱旋門の様に造られ、オットーハインリッヒを表す浮き彫り、紋章、彼を讃える銘句が彫られている。立像はフリードリッヒ館と同様にオリジナルは城内に保管されている。一番上に太陽と月の2体の像、次の段に軍臣マースや美の神ヴィーナスなど5体。あわせて7体の古代ギリシャ・ローマの神々の像が置かれている。2階部分の立像は五つの徳をあらわす。左から、権力、信仰、愛情、希望、正義。1階部分には旧約聖書の人物(ヨスア、サムソン、ヘラクレス、ダビデ)4体が置かれている。現在この建物の地下はドイツ薬事博物館として利用され、17c〜19cの薬品や容器類、フラスコなどの器具設備品が展示されている。
・この中庭では8月に行われる城のフェスティバルの期間中、オペラやコンサートが催される。
■テラスからの眺望
・テラスからは旧市街の町並みが一望できる。なによりも目を引くのはバロック風の塔をもつ、聖霊教会(ハイリッヒ・ガスト教会)。その手前にマルクト広場を挟み、市役所の建物。ネッカー川は右から左へと流れ、30キロほど下流のマンハイムでライン川にそそぎ込んでいる。このマンハイムを起点として古城街道は始まっている。ネッカー川にかかるカールテオドール橋は200年前まで屋根付きの木の橋だった。この橋から一つ下流にある橋は旧市街と新市街の間にある、ビスマルク広場からのびてきた道上にある。この橋を渡り、対岸のハイリゲンベルク(聖人山1320m)を少し登ったところから山を横切るように1本の道が見える。これが5キロに渡る、哲学者の道。道を横切り、山を下ってきたところで、カールテオドール橋を渡り、旧市街へと戻ってこれる。この聖人山のてっぺんには、ローマ人の残した信号塔の跡がある。9cには山の上にベネディクト派の修道院が建てられたが、中世末期には廃墟となり、その石を利用して展望塔が造られている。カールテオドール橋から2つ下流にある橋のあたりは、ノイエハイマーフェルドと呼ばれる町で、旧市街で手狭になった大学の新しい建物が建てられている。又、右手の上流の方へ向かうと、古城街道に沿ってネッカーの谷へと入る。隣の町、ネッカーグリュンドまでは1.5キロ程の遊覧を楽しむこともできる。(20DM位)
・浮気者の足跡 テラスの中央あたり、建物よりの床に足跡がある。伝えによると、「王様があまりに浮気をするので頭にきた妃が復讐をしようと、王が狩りに出た留守中に若い騎士を部屋に呼び込んだ。ところが狩りに出たはずの王が急に帰ってきてしまい、慌てた騎士は鎧をつけたまま妃の部屋の窓から飛び降りた。その時にできた足跡がこれで、この足形に足がぴったり合う人は、プレイボーイの末裔と言われる」
・ここから建物を見上げるとフリードリッヒ館の裏側が見える。普通建物の装飾は正面だけだが、この建物は裏側にも施されていて、町から眺めた時により美しく城を眺めることができる。夜には照明があてられ、ひときわ美的効果を発揮している。
■ワインの大樽
1751年にカール・テオドールの命にによって作られた。樽に付いている紋章はカール・テオドールのイニシャル、CとTを形どったもの。長さ8.5m直径7mの大きさで、22万リットルのワインが貯蔵できる。ふつうのワインの瓶、30万本分。130本の樫の木を使い、この場所で組み立てて作られた。実際にワインを入れた木製の樽として、世界一の大きさ。昔は税金をワインで納めることができたので、こういう大きな樽が必要だった。過去に3回ほどワインで一杯に満たされたと言われる。壁にはこの樽を製作したときに使われたコンパスとカンナが飾られており、その左手には手動ポンプ式パイプの跡が残っている。ちょうどこの上に宴会用のホールがあり、ここから直接ワインが送られていた。城では当時一日平均2000リットルのワインが消費されており、城の地下には、常時70万リットルのワインが貯蔵されていた。
ここに立っている像は、1720年頃カール・フィリップ公に仕えていた、宮廷の道化師で、樽の番人でもあった、ペルケオ。ペルケオはイタリアの出身で、ワインが大好き、いつもワインを勧められる度にイタリア語で「ペルケ・ノ」(英語のWhy
not)と言っては飲んでいたため、ドイツ人にはそれがペルケオと聞こえ、こう呼ばれるようになったそうだ。
(びっくり箱の下からでてる仕掛けをひっぱてもらう。チャイムが鳴り、キツネのしっぽが飛び出す--時々入っていない)ペルケオは大変な酒飲みで、人をからかう事が好きだった、こういう仕掛けでご婦人方を驚かせ、失神したご婦人を介抱するのが楽しみだったとか。「吹けば飛ぶような小男のくせに、飲みっぷりは大男そこのけ」と詩人シュッフェルがその詩で詩っている。ペルケオは一日18本ものワインを一人であけたそうだが、あるとき人から勧められ、ワインの代わりに飲んだたった一杯の水が原因で死んだそうである。左右の階段を登ると、樽の上に作られた踊り場にでることができる。
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