ルードヴィッヒ2世 < Ludwig II > 1845-1886

ルードヴィッヒ2世今から150年程前の1845年8月25日、バイエルン王国の首都ミュンヘン郊外にあるニュンフェンブルグの宮殿で、バイエルン王国皇太子マキシミリアンとプロイセンの王女であった妻マリーとの間に待望の世継ぎが誕生。父マキシミリアン2世は王子にとって祖父にあたるバイエルン王ルードヴィッヒ1世の名をもらい、この王位継承者である赤ん坊にルードヴィッヒ2世と名付けた。

国王ルードヴィッヒ1世は3年後の1848年に奔放な踊り子、ローラ・モンテスとのスキャンダルがもとで王位を退く。彼はミュンヘンを文化都市にすべく、数多くの建造物を造り芸術に理解を示した良き統治者であった。後継者は36才であったマクシミリアン2世。マクシミリアン2世も進んだ考えを持つ穏やかな王で、「もしも私が王の生まれでなかったなら、大学教授になっていただろう」と口癖のように言っていたほど学問、芸術に傾倒していたと言われる。ルードヴィッヒ2世は2才で皇太子となり、この年に弟オットーが生まれている。

その後王子は弟オットーと共に少年時代の殆どをバイエルンアルプスの山麓にある父の城、ホーエンシュヴァンガウ城で過ごした。この城は父マキシミリアン王が皇太子時代に中世の城跡に建てたもので、城内は白鳥の騎士ローエーグリーンを始め、沢山の北欧やバイエルンの中世伝説を題材とした壁画で飾られている。こうした絵に囲まれて育った王子は、山の中の城で母マリーや少数の召使い達に囲まれ、外の世界に触れることなく想像力豊かなロマンティックな感性を育んでいく。

ロマン主義
18世紀末から19世紀半ばへかけてヨーロッパではロマン主義が多くの人々の心を捕らえていた。ロマン主義は論理よりも個性や感情を重んじ、民族固有の民族性を重んじる思想として、文学、音楽、美術、建築などのあらゆる分野に渡って影響を及ぼす。民族的な統一がない為に他の国に政治、経済、文化などで遅れをとっていると考えていた当時のドイツの人々は特に、民族的なもの歴史的なものに固有の大きな意義を認めるロマン主義に強い共感をもっていた。中世への憧れというのもロマン主義の一つの特色である。中世を讃美し、この頃ドイツの各地では崩れかけていた中世の城が修復されたり、城跡に新しい城が建てられている。

ルードヴィッヒ2世が少年の頃から抱いていた中世の憧れに火を付けたのはワーグナーとの出会いである。ルードヴィッヒ2世は15才の時にミュンヘンの宮廷劇場でワーグナーのオペラ「ローエーグリーン」を観劇する。子供の頃から慣れ親しんできた壁画の世界が、舞台の上で踊っている。彼は全身が震えるほどの感動を覚え、ワーグナーとその作品世界の虜となる。

1864年マクシミリアン2世が急逝し、ヴィステルバッハ家の王位継承者としてルードヴィッヒ2世は18才で第4代バイエルン国王となった。王としての権力を使い彼が最初にやったことは、ワーグナーを呼び寄せることであった。

ヴィステルバッハ家
ヴィステルバッハ家は12世紀末に神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ・バルバロッサによって公国として授けられ始まった。その後領土を拡大し、17世紀には選帝候国となり、18世紀にはこの家からカール・アルプレヒトがドイツ皇帝に選ばれている。1806年、ナポレオンによって領土を2倍に拡大しバイエルン王国となる。初代国王はルードヴィッヒ2世の曾祖父にあたるマクシミリアン1世。その後ルードヴィッヒ1世、マクシミリアン2世の下に文化国家として発展を遂げた。税金・物価は安く、鉄道網、電線がひかれ、町にはガス燈が灯り、いくつかの都市では工業化が始まっていた。

時代背景
ドイツ全体を見ると、ナポレオン失脚後のウィーン会議により、ドイツ連邦が誕生したが、これは統一国家といえるものではなく、35の君主国と4つの自由都市から成りそれぞれが主権を持っていた。連邦成立後ドイツ統一の動きが盛んになってゆくが、オーストリアを含めた大ドイツ主義にするか、オーストリアを除きプロイセンを中心とした小ドイツ主義にするかという2つの動きがあった。特にプロイセンでは宰相ビスマルクが統一計画を着々と進めていた。バイエルン王国にはドイツ統一運動の主導権を握る力はなかった。

若き王は国民の信望を集め、自らも理想の政治を行うことを願った。就任当初から執務にまじめに取り組み、公の場所にも頻繁に姿を見せ、190センチを超える長身に、母親ゆずりの美貌を持ち合わせていた王は国民の人気を呼んだ。

もともと芸術を保護するのはバイエルン王室の伝統的習慣だったが、ルードヴィッヒ2世は芸術を愛し、美を愛することにおいては異常なくらいだったと言われる。ルードヴィッヒはワーグナーを王室の客として招き、ミュンヘンで数々のオペラを上演させている。又、当時経済的苦境にあったワーグナーを救済し、いわばパトロンとして彼を援助し続けた。

王のワーグナーへの傾倒はとどまるところを知らなかった。もともとカトリックの勢力が強く保守的な土地柄であるバイエルンは、新教徒で革新的な芸術家ワーグナーへの反感が強く、ミュンヘン市内では王の莫大な金銭贈与と保護に反感を抱き、反ワーグナー機運が高まっていく。ワーグナー反対運動の盛り上がりに王も仕方なくワーグナーに国外退去を進め、ワーグナーはミュンヘンを去っていった。しかしその後20年間、王のパトロンとしての立場は変わらず金銭的援助は続けられた。ワーグナーがヴェネツィアで客死するまで2人の親交は続き、行き交った手紙や電報は700通にものぼった。

リヒャルト・ワーグナー Richard Wagner 1813-83
1813年ザクセン王国のライプツィヒで生まれ、ドレスデンで育つ。若くしてその才能を現すが、作曲で身を立てることは難しく貧苦に耐えながらヨーロッパ各地を渡り歩く。30才の時に故郷ドレスデンで宮廷指揮者となるが、1849年にドレスデンで起きた革命の際、リーダー格で参加した為逮捕状がだされ、スイスへと亡命する。13年後作曲家としての名声が高まり、ザクセン王国政府は赦免状を出しその罪は許されたが、保守的なミュンヘンの人々の間では「危険な革命家」というイメージは消えることがなかった。ルードヴィッヒ2世に迎えられた時ワーグナーは51才で既に作曲家としての名声も高く、ヨーロッパ各地で音楽活動を行うという実績を持っていたが、不安定な収入と持ち前の贅沢好みも災いし、多額の借金があり、その借金から逃げるためにウィーンからスイスへ、スイスからシュトゥットガルトへと移っていた。王はワーグナーが安心して作曲に専念できるようにと破格の金銭贈与と邸宅まで与え、多額の借金の尻ぬぐいまでしている。公には秘書としてその関係を偽り続けていたコジマとの不倫関係も人々の反感に拍車をかけた。コジマはピアニストとして名高いリストの娘であり、ワーグナーの弟子ビューローの妻である。ワーグナーにも若い時大恋愛の末に結ばれた元女優のミンナという妻がいた。ミュンヘンの人々がワーグナーに反感を持つのも当然であった。(1870年にコジマの離婚が成立しワーグナーとコジマは結婚している。)ワーグナーは1883年滞在先のヴェネツィアで狭心症の発作を起こし死亡した。69才であった。死の知らせを受けた王は泣き崩れ「死体は私のものだ」と叫んだといわれている。

1866年ドイツ国内では統一問題をめぐってプロイセンとオーストリアの対立が顕著となり、バイエルンを初めとするドイツ連邦諸国を巻き込んでいく。中立を主張するルードヴィッヒの意見は聞き入れられず、バイエルンは大ドイツ主義の立場で、対プロイセン戦争に参戦した。ビスマルク、モルトケを擁するプロイセンはオーストリア・ドイツ諸国同盟軍を一方的に打ち破り、わずか7週間で戦争は終わる。オーストリアはドイツからはずされドイツ連邦は解体、プロイセンはマインツから北の諸国を併合し、北ドイツ連邦を築いた。バイエルン他南部諸国は多額の賠償金の支払いとプロイセンとの軍事同盟を結ぶ事で独立を保たれたが、ビスマルクのドイツ統一の戦略が終わったわけではなかった。

1867年王の婚約が発表される。相手は従姉妹に当たるゾフィーである。この発表はバイエルンを沸かせ、記念硬貨まで作られ、婚礼用の豪華絢爛たる黄金の馬車までも準備されたが、結婚の日取りは王の希望で先へ先へと延ばされ、半年後王の側から一方的に婚約が解消される。これにはゾフィーの姉でオーストリアに嫁いだエリザベート(シシ)への思慕、あるいは王が性倒錯者で女性に関心が持てなかった事などがあげられているが真因は分かっていない。ときに王は22才であった。(ゾフィーはすぐに又いいお婿さんを見つけ嫁いでいる)

ゾフィーとの婚約解消後、政治と人間性の葛藤の中で王は人間嫌いになっていき、しばしば少年の頃を過ごしたシュヴァンガウの城に逃れるようになっていった。ある日城の窓から山上にある崩れ掛かった古い塔を眺めていた王は、「これを壊して中世風の美しい城、白鳥の騎士の住むような城を作ろう」と思いつき、この計画はたちまち王の心を虜にしていった。

1869年王自らの指示で城の工事が始まった。外観はドイツのヴァルトブルク城、フランスのピエールフォンなどの中世の城を手本にし、城の内部は白鳥の騎士ローエーグリーン、トリスタンとイゾルデ、ニーベルンゲンの歌などの中世騎士伝説をモチーフにした壁画で飾られることになる。

1870年普仏戦争が起こる。バイエルンでは参戦か中立かをめぐって論議が続けられたが結局プロイセンの同盟国として軍を出し、その数はドイツ軍全体の3分の1を占めたほどであった。全ドイツはプロイセンのすぐれた指導の下に結束し、ナポレオン3世率いるフランス軍を降伏させた。

戦後ビスマルクは南ドイツ諸国を北ドイツ連邦に加入させ、23の君主国と3つの自由都市の連邦としてドイツ帝国を結成しようと各国を説得する。バイエルンではプロイセン国王とバイエルン国王が交互に皇帝の位に就くという案を出した。バイエルンはプロイセンに次ぐ大国であり、軍事力ではプロイセンにかなわないが歴史的に見て王家の格という点でプロイセンよりはるかに上であると自負していた。しかしこの提案は受け入れられなかった。ルードヴィッヒが描いていたのはかつての神聖ローマ帝国皇帝のような象徴的な皇帝だったのに対し、ビスマルクが目標としていたのは名実ともに備わる統一帝国の君主としての強い皇帝であった。

ビスマルクは帝国が結成されてもバイエルンにだけは外交、軍隊、鉄道、郵便などについて特権を認める。その代わり、ルードヴィッヒ2世がプロイセン国王ウィルヘルム1世を皇帝に推薦する手紙を書くよう説得した。ルードヴィッヒ2世はバイエルン国民のためにそれが最良の道であろうと考え、長い躊躇の末、親書をビスマルクに届ける。ここにビスマルクの悲願は達成し、1871年1月18日ヴェルサイユ宮殿・鏡の間においてドイツ帝国皇帝ウィルヘルム1世の戴冠式が盛大に行われた。全ドイツの王侯貴族が参列したが、バイエルン国王、ルードヴィッヒ2世の姿はなかった。ときに王は25才であった。

ドイツ帝国の成立により、ルードヴィッヒにとって国務は完全に無意味なものとなった。外交上の権限は全くなく、すべての重大事の決定はベルリンでなされた。権力の喪失とますます強まる現実逃避、そして王の築城への情熱が高まっていく。

ノイシュヴァンシュタイン城の工事を進めながら、ルイ14世と絶対王政への憧れから、キームという湖の男島と呼ばれる島にヴェルサイユ宮殿そっくりの城の着工にかかり、オーバーバイエルンにロココ風の宮殿リンダーホフ城を完成させた。王の3つの城の中で唯一完成された城である。王の築城への情熱には限りが無く、これらの城の建設と同時にノイシュヴァンシュタイン城よりも大きな中世風の城、ファルケンシュタイン、ビザンチン風の宮殿や中国風の宮殿など次から次へと計画が進められていた。

1871年王の弟オットーは精神病の悪化により、ミュンヘン近郊のフュルステンリート城に監禁された。前年の10月にはドイツ統一問題を話し合うヴェルサイユ宮殿での会合に兄に代わって出席するほど元気だったのに。このことはルードヴィッヒをますます孤独にしていく。即位したときのすらりとした長身と美貌はすっかり失われ、不規則な生活のために太り、歯が欠け落ち、人前にでることをできるだけ避け、国民の前にも殆ど姿を見せなくなってしまった。
当時の王の生活は昼と夜が逆転し、食事はいつも一人でとっていたが、時折数人分の食事が用意され、幻想の中でブルボン王朝の代表的人物達、ルイ14世、16世、ポンパドール婦人やマリーアントワネットらが招かれた。王の城の食堂は、人の出入りを嫌うために、食卓が自動昇降式(ノイシュヴァンシュタイン城は違うが)となっている。王はまるで目の前に王や王妃達がいるかのように語りかけ、食事を楽しんだと伝えられている。バイエルンの国民達は、滅多に姿を見せぬ王を「孤独な王」「おとぎの国の王」と呼び始めていた。

1886年、王の財政は築城の情熱により大きな負債を抱えていた。ときの首相ルツは早期に王室財政の危機に対応しなかった自分の責任を問われることを恐れ、王を退位させ、伯父のルイポルトを摂政にたてようと企てた。そのためルードヴィッヒ2世廃位の工作がなされ、王の側近達から精神異常を証明する証言を集め「王はパラノイア(偏執狂)という不治の精神病にかかっている」という診断書を作った。6月12日ノイシュヴァンシュタイン城にいた王のもとにミュンヘンの宮廷から役人達がやってきて、ついに王は捕らえられミュンヘン近くのベルク城に監禁されてしまった。かつて王が愛したこのベルク城は今や監獄と化し、窓には鉄格子が扉には覗き穴が付けられていた。そんな扱いを受けても王は静かに平静を保ち礼儀正しかったといわれている。

1886年6月13日は聖霊降臨祭の日曜日だった。朝から激しい雨が降っていた。午前中、王の希望で散歩が行われ、医師であるグッデンと看視人が付き添った。夕方6時過ぎ、王は再び散歩を希望した。今回は看視人はグッデンの指示で退けられ、雨の中黒いコートに帽子、黒い傘を持った二人は散歩道を歩いていった。長すぎる散歩に不審がもたれ、夜8時過ぎに捜索が始まる。本来ならこの時期、北国ドイツの空はまだ明るい時間なのだが、この日は雨が激しく、暗くなっていた。夜10時過ぎにシュタルンベルクの湖で、2人の帽子、王の上着、そして傘がみつかり、11時過ぎに二人の遺体が湖の中で見つかる。

王の遺体はミュンヘンに運ばれ解剖の結果、溺死ではなく急病死であると発表されたが、王の突然の死に暗殺説、自殺説、逃亡説、事故説などが囁かれた。二度目の散歩で王が逃亡か自殺を決意していたのは確かであろう。散歩中突然湖の中へ走り出した王を62才のグッデンがとめようとして格闘になり、誤って王はグッデンを殺してしまう。そのまま水へ入り突然の激しい運動、降りしきる雨、湖の冷たい水といった悪条件に心臓発作を起こしたのではというのが一つの説だが、二人の死は、いまだに深い謎として残っている。

王の葬儀はミュンヘンにて盛大に行われ、聖ミヒャエル教会に埋葬された。40年という短い生涯であった。

森鴎外
当時ミュンヘン大学に留学中であった25才の森鴎外もこの死を知り、「うたかたの記」の最後の章にその時の様子を記している。
「ときは耶蘇暦(西暦)1886年6月13日の夕べの7時、バウリア王ルゥドヴィヒ第2世は、湖水におぼれてそせられしに、年老いたる侍医グッデンこれを救わんとて、ともに命をおとし、顔に王の爪痕(そうこん)をとどめて死したりという、おそろしき知らせに、翌14日、ミュンヘン府の騒動はおおかたならず。町の角々には黒縁とりたる張り紙に、この訃音を書きたるありて、この下には人の山をなしたり。(中略)久しく民に面をみせたまはざりし国王なれど、流石に痛ましがりて、憂ひを含みたる顔も町に見ゆ」

映画「ルードヴィッヒ・神々の黄昏」
ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「ルードヴィッヒ・神々の黄昏」(1972年作品)はルードヴィッヒ2世が18才で王に即位し、40才で謎の死を遂げるまでを描いている。レンタルビデオで借りられるが、少々長い映画で途中で眠ってしまうT/Cも多いようだ。ヴィスコンティならではの幻想的な映像の中に、自分だけの孤独と倒錯の幻想世界へ陥っていくルードヴィッヒの姿がよく描かれている。崩壊の美学を追求したルキノ・ヴィスコンティでなければ、自ら選んで破滅の道をたどっていったかのようなルードヴィッヒ2世の人生は描けなかったに違いない。「神々の黄昏」とはワーグナーの代表作「ニーベルンゲンの指輪」の中の第4夜のタイトルからとられている。

ルキノ・ヴィスコンティ LUCHINO VISCONTI
1906年、ミラノの名門貴族ヴィスコンティ家に生まれる。デカダンス色濃い作風。76年死去。
「郵便配達は二度ベルを鳴らす」42年/「揺れる大地・海の挿話」48年/「ベリッシマ」51年/「夏の嵐」54年/「白夜」57年/「若者のすべて」60年/「ボッカチオ70」62年/「山猫」63年/「熊座の淡き星影」65年/華やかな魔女たち」67年/「異邦人」68年/「地獄に堕ちた勇者ども」69年/「ベニスに死す」71年/「ルードヴィヒ神々の黄昏」72年/「家族の肖像」74年/「イノセント」75年

ルードヴィッヒ2世役はオーストリア出身のヘルムートー・バーガー。「地獄に堕ちた勇者ども」「家族の肖像」などのヴィスコンティ映画にも出演している。
皇妃エリザベート役は他の映画で度々エリザベートを演じたため彼女の愛称からシシー女優というあだ名をもらった、ロミー・シュナイダー。
リヒャルト・ワーグナー役はトレバー・ハワードが演じている。