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(ローテンブルグ)
ハイデルベルクからバスで約2時間40分
ディンケルスビュールまでバスで45分
ミュンヘンまでバスで約2時間40分<ロマンティック街道をアウグスブルクまで行きアウトバーンを走った場合>
マルクト広場〜聖ヤコブ教会〜ブルク公園〜マルクト広場 所要約1時間
1時間ほどの観光で、町の概要をつかんでもらい、なるべく多くのフリータイムをとりたい。ローテンブルクへ向かうバスの中で事前にフリータイムの歩き方を案内しておこう。
ローテンブルクに宿泊する場合は、バゲージがあるのでバスは町中に入り、宿泊ホテルまで横付けできる。それ以外の場合(11-16,
22-5, 土曜日14-18, 日曜日11-18時)は城壁の外のP(パーキング)に駐車。
昼食場所や宿泊場所からルートを組み、効率よく案内しよう。マイスタートゥルンクはお客様全員が見落とさないようTCが案内する方がよい。
観光シーズン中は、馬車を利用してまわるのもおもしろい。馬車は地図7のシュワーネンプラッツから乗ることが出来る。乗り場は時として、地図6の聖フランティスカーナ教会の前に変わる。また走っていない時もあるので必ず現地で確認すること。乗合馬車でお客さんが適当に乗ったところで動き出し、20分ほどで乗った地点まで戻ってくる(一人DM10位)
人数が揃うなら、昼食場所や宿泊ホテルに手配を頼んで予約し、そこまで来てもらうという手もある。これだと時間のロスが少ない。一台15名まで
フリータイムを取る前に、事前に地図を入手して配る。(ホテルの場所に印を付ける)
また町中は乗用車が割とスピードを出して走っているので、車に注意することを必ず告げる。
地図ではバスP(パーキング)からのルートを組んだので参考にしてほしい
<駐車場より矢印のようにマルクト広場まで歩いていく。城壁を越える手前にトイレ有り>
<城壁を越えてシュピタール通り(Spitalgasse)にでる>
*ローテンブルクの旧市街は全長3.4キロの城壁で囲まれている。中世の頃は町を防御するために周囲を市壁で囲み、その中に住む人をブルガー(町人)と呼んでいた。この辺りはもともとは城壁の外にあった場所だが、町の発展に伴って、度々城壁が拡張され、14世紀に行われた第2次拡張によって市内に取り込まれた。地図1の所に見えるのが1280年頃につくられたシュピタール、昔の病院で、現在は老人ホームとなっている建物。中世の頃は大抵の都市に市民のための病院としてシュピタールがあった。度々流行したペストなどの伝染病を防ぐためにもシュピタールは城壁の外にあった方が都合が良かった。シュピタールはまた仮宿泊所もかねていた。中世の頃には城門は日没と共に閉められてしまい、それに遅れたものは市内に入ることができなかった。そんな時に泊めてもらうのがこのシュピタールだった。日本の鎌倉幕府の時代に、このような社会福祉施設が整っていた事に驚かされる。
ローテンブルクは終戦間近の昭和20年3月31日に空襲を受け、町の4割が廃墟となってしまった。(ドイツの終戦はS.20.5.8)しかし国内外からの援助により修復が進み、今日再び昔の姿を見ることができる。特に修復維持に費用がかかるのが城壁で、1950年に1m寄付運動が始められた。これは壁1m分の修復費用を一般に募ったもので、寄付を申し出た人には市の発行する証書が与えられ、市壁に名前が刻まれると言うもの。1m59マルクでスタートした寄付金は物価の上昇に伴い、今では1000マルクを越えている。日本人第1号は、1982年にここを訪れた刃物の老舗木屋の当時専務だった加藤氏。現在城壁は上に登って歩く事ができ、多くの日本人の名を目にすることができる。
<地図上の赤い三角マークの所に城壁への登り口がある。A地点から時計回りにB地点まで行く通路には登り口も多く、プレートも埋め込まれているので、フリータイムに歩く場合はこの辺りを歩くのがよいだろう>
地図2の所には13世紀に造られたジーバーの塔がある。この塔は第2次市壁拡張工事が行われる前まで市の南側を守る防御塔であった。町の発展に伴って城壁が拡げられ、不要となった部分は取り壊され外側の掘りも埋められる。跡地の一部は環状道路として利用されたが、このようにいくつかの城門は残され、写真を取るのに絶好の場所となっている。
<この辺りのパン屋さんでローテンブルク名物のお菓子、シュネーバル(Schneeball =Snowball)を売っている。パイ生地をリボン状にのばし、丸めて揚げたもので、粉砂糖やチョコがかかっている。DM3位。町中のパン屋さんでも見かけるが、ウィンドーにディスプレイされていてよく見えるので、見かけたところで紹介しておこう>

<ジーバーの塔をくぐりホテルゴールデナー・ヒルッシュの辺りで振り返る>
*ここがプレーンライン(ラテン語で小さな場所)と呼ばれる一角。道が分岐するところで調和のとれた眺めは、ローテンブルクを代表する風景の一つにもあげられ、絶好のカメラアングルになっている。中央の木骨組の家の前には小さな井戸が掘られているが、この井戸はタウバー河の漁師が釣ってきた魚を売るまでの間放っておくいけすの役も果たしていた。
ホテル ゴールデナー・ヒルッシュは、金色の鹿を意味し、金色の鹿を型どった看板が吊り下げられている。このように町中では、パン屋さんの前にはプレーツェルという8の字形のパン、居酒屋を兼ねていた宿にはワインクラスといった、それぞれの屋号や商売を表す看板が付けられている。
*地図3の所にはマイスタートゥルンクの立役者、ヌッシュ市長の家がある。ピンクの壁のレストラン、ローターハーン(赤い雄鳥)がそれ。この家の壁にはラテン語で次のように書かれている。「かの有名なる一飲みによって、ヌッシュは故郷の町を救った。汝、ヌッシュをここで偲びながら、彼が教えたことを繰り返せ!」その言葉どおりこれから行く、街の中心マルクト広場では、一日7回マイスタートゥルンクと呼ばれる仕掛け時計が彼の一気のみを再現している。ここに建つ教会は、14cに建てられた聖ヨハネスカトリック教会。通りを覗き込むと地図4の所に鉄製の檻がぶら下がっているのが見える。ここが中世犯罪博物館で、粉の目方をごまかしたパン屋が、この檻に入れられて、ごまかした目方の分だけ水の中に付けられたという。
中世犯罪博物館--<4月-10月 9:30-18:00 11月.1月.2月 14:00-16:00 12月.3月 10:00-16:00
DM5>
中世の法律、判決に関するものと、拷問責めに使用された道具などが展示されている。おしゃべりな女性にかぶせた鉄製の仮面や、教会で居眠りした人にかけさせた鉄製のロザリオなどから、魔女の疑いをかけられた女性を座らせた鉄の刺がでている恐ろしい椅子など、実際に使われたことを思うとぞっとしてしまうものまで、当時の人々の倫理観がうかがえて興味深い、
<ここからマルクト広場までゆるい登り坂、石畳で足を滑らせないように気を付けてもらおう>
*地図5にあるレストランは、バウマイスターハウスと呼ばれるルネッサンス様式の建物で、1596年に当時の建築主任の住まいとして建てられた。バウマイスターとは建設役兼収入役で、市長の次に重要な役職だった。当時の町の建設といえば、城壁の管理が大きな仕事だったが、これには大変お金がかかるので、建設役は、収入役をも兼ねていた。建物上部の切り妻は、両側にうねった竜がつけられ、その下の2階、3階部分の窓には、男女交互に立像が並び、7つの善と7つの悪が表されている。この家はローテンブルクに残る家の中でも、特に美しいと言われている。歩き疲れてお茶でも飲みたい時に利用してもらおう。
バウマイスターハウスに向かって右隣の建物は14cにローテンブルクの市長だったハインリッヒ・トップラーの家だった所。トップラーはヌッシュと並び、人々に語り継がれている名市長。当時市長は町の名門出身者がなるのが普通だったが、彼は名門でもなく、よその地から移住してきた普通の家庭の出だった。市長に選ばれると町の整備を行い、経済発展に備えると同時に、外交面ではニュルンベルクの王と手を結び近在の封建諸侯から距離を置く政策をとり、彼のもとローテンブルクは飛躍的な成長を遂げている。しかしニュルンベルクの王が亡くなり、プファルツ選帝候ループレヒトが王に選ばれると、トップラーは国家反逆の罪に問われ投獄されてしまう。彼は1408年に牢内で亡くなった。聖ヤコブ教会には彼を偲んで、トップラー礼拝堂が作られている。
街の中心マルクト広場、ここで市庁舎、マイスタートゥルンクの仕掛け時計を案内し、時計を見てもらっている間にインフォメーションで人数分の地図を貰ってこよう。インフォメーションが閉まっている時には、近くの土産屋などにも置いてある。
マルクト広場 (Marktplatz)
町の中心に位置し、まさにローテンブルクの歴史と共に歩んできた広場。marktは英語のmarketと同じで市場という意味。今でも規模は小さいが露天がでて野菜や果物などを売っている事があるが、中世の頃の市とは、町の遠近からやってきた商人同士の取引を指し、ここだけでは狭すぎると、特定の商品は別の広場や道路で行われた。ローテンブルクでは家畜の取引はヘレンガッセで行われていた。こういう定期市を開く権利も帝国自由都市の特権であった。市庁舎中庭の展示室には基準尺が残っている。中世の頃は町によって異なる基準尺があり、その町で商売するときには必ずその町の尺定規にあわせなければならなかった。この広場はまた処刑や祭りの中心でもある。1525年農民戦争の時には先導車21人がここで首を切られ。その血はシュミートガッセを川のように流れたと年代記に記されている。また中世の頃から今に続く羊飼いの踊りはこの広場で繰り広げられる。7月と9月の中頃に行われるこの踊りは、アヒルや羊、豚を引き連れた行列から始まる。言い伝えによれば羊飼い達がこの踊りでペストを町から駆逐したとか、また一説には一人の羊飼いが、夢のお告げで宝物を見つけ、喜んで踊ったのが始まりだとか言われている。中世の頃には聖ゲオルクの泉の回りで踊られていた。
聖ゲオルクの泉 (Herterichsbrunnen)
聖ゲオルクは、大地を荒らし凶作をもたらす竜を退治したとして、中世の頃農民の間で最も人気があった聖人。竜に例えられているのは度々氾濫を起こし農民を苦しめた大河でもある。泉の中央に立つ柱の上には竜を退治している聖ゲオルクが置かれ、12角形の泉は17cの初めに作られた、ルネッサンス様式の装飾が施されている。外側は石造り、内側は銅で造られていて、手動式のといが付いている。この樋を操作して中央の水を手元に呼び寄せることが出来る、中世の知恵である。この泉は市内最大の井戸で、深さ8m以上、今でも10万リッターの水をたたえている。
聖ゲオルクの泉の後ろには、大きな2軒の木骨組の家が泉を囲むように建っている。今は薬局マリエン・アポテーケの看板がかかっている右側の建物は、15cに建てられた当時の市長ヤークストハイマーの家だったところ。張り出し窓とその下に付けられている聖母子像が大変美しい。向かって左隣の建物は18cまで精肉業者が店を開いていて、上の階では舞踏会が開かれる広間があったことから、肉館・舞踏館と呼ばれている。現在ここで、ローテンブルク芸術組合の作品が展示販売されている。この館の左の小道を入ったところに、人形博物館がある。通りを覗き込むと入り口の前に大きな黄色いこけしが見える。薬局の隣にはクリスマス・ビレッジ(Kathe
Wohlfahrt、ケーテ・ウォルファルト)があり、一年中クリスマス製品が売られている。店内のクリスマスの飾り付けは見事である。
人形・おもちゃ博物館 (Puppen & Spielzeug Museum)
<9:30-18:00 1月-2月 11:00-17:00 DM5>
エンゲルス夫人が集めた約600点の人形や人形の家、家具、食器など、日本人形を始め世界の人形が展示されている。
市庁舎 (Rathaus)
1505年に火災で、1945年には第2時世界大戦の戦禍を受けて焼失し、現在の建物は再建されたものであるが、当時の様式そのままに再現されている。後ろ側の高い塔を持つ建物が13cのゴシック様式、塔の高さは50mで、上からはローテンブルクの赤い瓦屋根が続く町並みが一望のもとに見れる。広場に面している建物は16cのルネッサンス様式と、アーケードの部分は17cのバロック様式。中央の入口から螺旋階段を上っていくと、「玄関の間」と「皇帝の間」にでる。「皇帝の間」はかつて裁判所として利用されていた場所で、判事席と被告席を仕切る石の棚が今でも残されている。現在この広間でマイスタートゥルンクの歴史劇が年に数回行われる。
市庁舎の塔
「玄関の間」の端にある、木造の狭い階段を登ると、塔の上に出れる。
上まで登った所でお金を払い、最後に梯子を登って、外にでるので、スカートでない方がよい。表のテラスには10人程しか出れず、混んでいて時間のかかることもある(特にマイスタートゥルンクの時計の前後が混み合う)。時間に余裕を持って登ってもらおう。
市参事宴会場 (Trinkstube)
ドイツを旅していると各都市の市庁舎にラッツケラーという名のレストランが付属しているのを目にする。大抵はその都市を代表するような名物レストランとなっている。昔は市長も市参事もみな無給でただ名誉と、こういった所での飲み食いだけが特権だった。ローテンブルクの市参事宴会場は現在インフォメーションセンターとして使われている。広場に面した切り妻部分には上から日時計、帝国直属の自由都市であることを象徴する双頭の鷲、カレンダー時計、そして1683年に設置された町の主時計がある。左右の窓は時間になると開き、マイスタートゥルンクの主役の2人、ヌッシュ市長とティリー将軍が現れる。この仕掛け時計は1910年に設置された、ローテンブルクの名物。今日本でもあちこちで見事な仕掛け時計が見られて、87年も昔の仕掛け時計は物足りないかもしれないが、見落とさないように
マイスタートゥルンク (Meistertrunk) 11,12,13,14,15時、21.22時
日本語に訳すなら「市長の一気のみ」。
1631年10月、プロテスタントとカトリックという新旧2つのキリスト教の摩擦から起きた30年戦争の真っ最中、プロテスタント側についたローテンブルクの町は、カトリック側の連盟軍、ティリー将軍の率いる3万の兵に包囲、占拠された。ローテンブルクがたった700人の兵隊に、女子供までついて戦って、軍隊に大きな損害を与えたことに腹を立てていた将軍は、町の議員達を全員処刑し、町も焼き払うという決定を下した。人々はマルクト広場に集まり、女子供はティリー将軍にみんなの命ごいをしたが、聞き入れてもらえなかった。そこで、少しでも将軍の気持ちをやわらげようとワイン管理人の娘がこの地方の美酒、フランケンワインを町の宝である選帝候の大杯についで、将軍に差し出した。将軍は美酒に酔いしれ、機嫌が良くなったのか、この大ジョッキのワインを一気に飲み干すものがいたら、町を救おうと言い出した。それを受けてたち、当時の市長であったヌッシュが名乗り出た。市長は将軍に念を押した。「私は43才の今日ここで倒れて死んでもいい。しかし将軍、あなたは必ず約束を守ってくれるか。私がこのワインを飲み干したなら、死刑も、町に火を放つこともすべて許してくれるか。」約束を取り付けると今度は町の人に向かって叫んだ。「見ててくれ、みんな。これまで市参事会がある度に飲んできたのもダテじゃない。今日は私がこの町のために飲もう」そう言い終わると、しっかり足を踏ん張り、10分間で3.25リットル入りの大杯を見事飲み干した。こうして町は救われた。市長はその場に倒れてしまったが、3日後に目をさまし、80才まで生き延びた。
<マルクト広場からマイスタートゥルンクに向かって左の路地を入り、聖ヤコブ教会へ向かう。ここの公衆電話は5マルク硬貨も使えて国際電話をかけるのに便利。トイレ(有料)の場所も案内しておこう>
<聖ヤコブ教会は有料でツアーに含まれていない場合もある。そんな時は場所だけ説明し、フリータイムに希望者を案内しよう。リーメンシュナイダーの聖血の祭壇は、中に入り左手奥の階段を登った、教会の後陣にあたる所>
聖ヤコブ教会 (St. Jakobskirche)
14cから15cにかけて建てられたゴシック様式の教会。建築には100年以上の歳月(1311〜1448)を要している。上下に細長い窓と柱、神の在す天へと向かっている2本の高い塔、内部に入ると天井が高く、窓も高く大きく十分採光され、その窓にはステンドグラスがはめ込まれるといった、ゴシックの特徴が見られる。ローテンブルクの中央教会で現在はプロテスタントの教会。十字軍遠征の折に聖地エルサレムから持ってきたと言われるキリストの聖血が顕示されているため、アルプス以北で最も聖なる巡礼地として、かつて多くの巡礼者が訪れた。
<中に入ったらまず2階にあがり、一番の見所である、聖血の祭壇を案内しよう>
聖血の祭壇 (Heiligblutaltar)
1501-1505年にかけて、ドイツ後期ゴシック最大の彫刻家といわれる、リーメンシュナイダーの40代の頃の作品で、菩提樹の木に彫られている。上部の十字架の中央にある水晶の容器の中にキリストの御血が3滴保存されていると信じられている為、聖血の祭壇と呼ばれる。開きになってる彫刻は、向かって左側はロバの背に乗ってエルサレムに入場するキリスト、人々は着ていた上着を敷いて歓迎している。右側にはゲッセマニの園で血の汗を流し祈るキリスト、その下には起きて一緒に祈りなさいと言われたのに眠りこけてしまう弟子たちが、その後ろにはユダに先導されてキリストを捕らえにきた者達が描かれている。中央の彫刻は最後の晩餐、「汝らの内の一人が私を売るであろう」というキリストの言葉にびっくりしてざわめく弟子たち。師を裏切るという約束で得た、銀30枚の入っている革袋を手に、驚いて立ち上がるユダ、そしてその裏切り者にさえ自分の肉に変わるパンを与えようとしているキリスト。キリストの膝には、一人師を信頼し身をゆだねる、ヨハネが描かれている。
リーメンシュナイダーは15c半ばにドイツ北部のザクセン地方に生まれ、15c後半からビュルッツブルグ市を中心に活躍した。 1520年〜1521年にかけての、彼が52才の時には、ビュルッツブルグの市長まで務めている程の人物だったが、宗教戦争に端を発する、農民戦争の時にビュルッツブルグの市参事会員として教会と対立したために投獄され拷問を受け、一説ではその時、もう2度と彫刻が彫れないように手の関節がすべて折られたそうである。名誉も地位も財産もなくし、5年後に63才で亡くなっている。妻や子供にも早く先立たれその晩年は不幸なものであった。その数奇な生涯ゆえ、彼の名は死後約300年もの間忘れられていた。19cに彼の墓碑がビュルッツブルグの大聖堂で偶然発見され、この地方に残る数々の彫刻作品が彼のものであることが確証された。
彼はリアリズムと絵画性を結びつけ、その作品は表情豊かに、動きのあるポーズで表され、着衣のひだも鮮やかに深く切り込まれている。光線による多様な効果をあげる為に、中央の最後の晩餐の場面の背後には明かり取りの窓が設けられ、そのために使徒達がお互いに疑いあい、口論する表情が立体感あふれる彫像となってドラマチックに表現されている。またこの彫刻は木そのものの美しさを大事にし、彫刻に彩色を施さず、そのままにしている。これは当時としては斬新的なことだった。彼の作品は、ビュルッツブルグの博物館や大聖堂を始め、ロマンティック街道沿いの町々に多く残されている。
聖血の祭壇の向かいにあるパイプオルガンは5500本のパイプを持つ。1968年に設置されたもので、夏には毎週2回オルガンコンサートが催される。
<下におり、中央の祭壇へと向かおう>
左側廊の突き当たりには、リーメンシュナイダーの初期の頃の作品が置かれているので、聖血の祭壇と比較してみるのもおもしろい。この作品は聖血の祭壇より10年ほど前の1490年頃に作られた。アッシジの聖フランチェスコがキリストと同じ5つの聖痕を受けた場面と、右側には眠る僧レオが描かれている。当時の慣習に従い、こちらの作品には彩色が施されている。
12使徒の祭壇 (Zwolfbotenaltar)
中央の主祭壇は1466年にネルトリンゲンの名匠達によって作られた。十字架のキリストを囲むように4体の天使が彫られ、その下には聖母マリアと聖ヨハネが十字架を見上げるように彫られている。マリアの向かって左隣にいるのが、この教会の守護聖人、聖ヤコブで、彼の印である貝が一緒に彫られている。祭壇の扉は観音開きになっており、聖母マリアの生涯と、聖ヤコブの生涯が描かれている。祭壇の台座には、キリストを中心に12使徒が描かれており、そこからこの祭壇は12使徒の祭壇と呼ばれる。
後ろのステンドグラスは14世紀に作られたオリジナルである。
右側廊にはローテンブルクの名市長だったハインリッヒ・トップラーの礼拝堂と、美しい石造りの聖母マリア像のあるシュペルライン礼拝堂がある。
<ヘレンガッセに出て、ブルク公園へと向かう>
ヘレンガッセ (Herrngasse)
ドイツ語で男性のことをヘルといい、その複数形がヘレン。トイレの表示はヘーレンとダーメンで、紳士淑女が表されている。昔はヘルというのは貴族や、領主の役人とか有力な大商人のような偉い人のことを意味していた。ヘレンガッセはかつての貴族や有力商人の家々が並ぶ通り。12c半ば、神聖ローマ帝国シュタウフェン朝の皇帝がこの町を支配するようになった頃、ブルク公園からマルクト広場を結ぶこの通りを中心として、町は大きくなっていく。町の一等地として昔から続いている有力商人の家はたいていこの地域にあり、後から財を成した商人もまた、機会を求めてここに割り込もうとした。ここに家を構えることは有力商人のステータスでもあった訳だ。立派な切り妻屋根や、木骨組の家々の上部には太い梁が突き出ている。食料不足や戦争の時町では食料の貯蔵が義務づけられていて、そういった物資を引き上げるために使われていた。道の中央の噴水はヘレン・ブルネンと呼ばれ、16c末に作られたもの。ローテンブルクはタウバー河から水を引いているがその給水路は、町が包囲され敵に水源を断たれたり、毒を入れられないよう市長や市参事などのごく一部の人しか知らない極秘事項であった。
<ブルク公園に入る城門の手前、右側に人形劇の小屋がある。ドイツ語で内容が今一つ解らないが・・・。月〜土20:30開演、6月〜9月は15:00もあるそうだが、現地で確認してみて!>
ブルク公園 (Burggarten)
塔をくぐってブルク公園へと入る。この塔は1350年に築かれた見張りの塔で、町の数ある塔の中で一番高くて、古いもの。塔の手前には16cに税関・見張り用に建てられた双子館がある。
10cローテンブルク伯がここに城を構えたのが町の起源。12c初めに同家は断絶し、当時の皇帝はここにあった城をシュタウフェン家のコンラートに与える。コンラートは後に皇帝となり、その跡を継いだのが甥のフリードリッヒ1世、別名バルバロッサである。バルバロッサというあだ名はイタリア語で赤い髭を意味する。イタリアへ遠征したときに付けられた呼び名がそのままドイツでも愛用されたわけだが、その呼び名の通り彼は見事な赤っぽいブロンドの髭をたくわえていた。武将としても政治家としても非常に優れていたバルバロッサはドイツでも人気が高く、12cのシュタウフェン朝時代の宮廷騎士文化を代表する人物である。城はシュタウフェン家が断絶した後廃墟となってしまい、1356年に全ヨーロッパを襲った地震で崩壊してしまった。現在はその一部と思われる城址と、ブラジウス礼拝堂が残っているにすぎない。初夏から秋口にかけては、花々で美しく彩られ、公園の突き出た所まで行けば、眼下にタウバー河が見える。この公園からタウバー河の方へ下りていくと、14cに川に架けられた二重橋や、トップラー名市長の別荘へと続く格好のハイキングコースとなっている。
6/28〜7/6頃 民族祭り(Volksfest)
お祭り広場にビアガーデンが設置され、市長のビール樽開けと共に開会し、聖ヤコブ教会でのパイプオルガンコンサートを初め、様々な催しが行われる。
9/12〜9/14頃 帝国都市祭り(Reichsstadt-Festtage)
過去7世紀に渡るローテンブルクの歴史を再現した一年の内で一番大きな歴史祭り。「たいまつの行進」や大花火大会、そしてマイスタートゥルンクの歴史劇、羊飼いの踊り、ハンス・ザックス劇もあわせて行われる。
10/25〜11/2頃 秋の収穫祭
シュラネン広場が大ビアガーデンと化す
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