|
BC1c
|
ライン川は古代から水運に利用されていた。
紀元前55年にはカエサル率いるローマ軍がこの川を渡り、ゲルマン人を追い出している。<カエサル著、ガリア戦記>
ローマ軍は川を北上しケルン、マインツ等の植民地を建設した。ローマ人はライン川づたいに北上して、ついには海を越えてブリタニアをも征服するにいたるのだが、大陸においては、ライン川の右岸にはいぜんゲルマン人がいて、ローマ帝国はその侵入に備えるため、ビンゲン(Bingen),
ボッパルト(Boppard), コブレンツ(Koblenz), ボン(Bonn)等にいくつかの城塞を築いている。ライン川沿岸には、ケルンを始め、このようなローマ支配の歴史の遺跡が多く見られる。
紀元前9年頃、ローマ皇帝アウグストスはこれらを起点として、ゲルマン人をエルベ川の方まで追い散らすが、アウグストスの死後、後を継いだティベリウスの時代、勢いを盛り返したゲルマン人は再び攻めてきた。ローマはドナウ川上流からライン川を結ぶ線まで後退する |
|
1c
|
1c末ドミチアヌス皇帝の時にこの線(ドナウ河畔のレーゲンスブルクの少し上流から、ライン河畔のコブレンツの少し下流)に全長548キロに及ぶ境界城壁が造られる。これはリーメスと呼ばれ、「限界」を意味する「リミット」の語源となっている |
|
3c
|
2c頃から行われ始めたキリスト教伝導により、ケルンとトーリアに司教区ができる。この地はその後、世俗的権力(国王・諸侯)と一体となってドイツにおけるキリスト教の拠点となる。
しばらく平和が続いたが、260年頃ゲルマンのアレマン族が勢い盛んになり、境界城壁を突破してきた為、ローマ人はライン川左岸を撤退しゲルマン人に明け渡すことになる |
|
4c
|
ライン両岸のローマ支配が終わり、歴史上有名なゲルマン民族の大移動が始まる。 |
|
8c
|
8c末ライン西岸に住み着いたフランク族はカール大帝のもとで最盛期をむかえ、遥か東のエルベ川まで支配地を広げていった。 |
|
11c
~17c
|
ライン川は中世の800年間を通じて、帝国領域の中央を流れ、ヨーロッパの南北を結びつける重要な交易路であった。沿岸には都市が発達し、都市の間に同盟が結ばれた。川の通行税という利権をねらって、近隣の諸侯はこぞってラインの流域に進出した。14cには税関の数が60あまりにも達した。 |
|
19c
|
17c半ば以降、自然国境論を唱えるフランスの進駐により、ラインは国境の川となった。上流のアルザス・ロレーヌ地方、中流域の西岸もフランスに併合されてしまう。
1870年プロイセンは普仏戦争に勝利しアルザス・ロレーヌを取り戻す |
|
20c
|
第1次世界大戦後のヴェルサイユ条約によってアルザス・ロレーヌは再びフランスに戻され、ライン沿岸は非武装化される。ヒトラーの時代に、今一度ラインはドイツの川となり、1945年ドイツ軍はレマーゲン鉄橋1つを残しラインにかかる22の橋すべてを破壊したが、押し寄せる連合軍を止めることはできなかった |