地図と歴史



見 所
リューデスハイムを出航するとまもなく、中州に13世紀の通行税をとるための関所だったネズミの塔Mauseturmが現れる。この名は重税で農民や通行人を苦しめたマインツの大司教が、ここでネズミに食い殺されたという伝説に由来する。
ネズミの塔を通過するとまもなく左手にそそり立つ岸壁の上に900年頃建てられたラインシュタイン城が見える。この城も税関として建てられたもの。隣り合わせに建つのはライヒェンシュタイン城。今はホテルになっているが、昔は川を渡る舟をおそう盗賊騎士の根城だった。そのために13世紀にライン都市同盟により破壊されるが、その盗賊騎士退治の基地として使われたのが前出のラインシュタイン城だった。どちらの城も修復され、一部博物館として公開されている。
城の下に見える教会は、12世紀に建てられた聖クレメンス礼拝堂で、ライン沿いの教会の中でも古いものに属する。
その隣りにゾーンエック城が見えてくる。11世紀に建てられたこの城も盗賊のすみかとなった為、13世紀に2回破壊されている。このライン川は中世の800年間を通じて、帝国領域の中央を流れ、ヨーロッパの南北を結びつける重要な交易路だった。川の通行税という利権を狙って、近隣の諸侯はこぞってライン流域に進出し、数々の城を建てている。
やがて舟は中世建築の残るバッハラッハでお客さんを乗せる。このバッハラッハは千年以上の歴史をもつ町で、木材やワインの販売そしてライン川を通る舟からの通行税によって、財政豊かな町であった。町の左上に見えるのはホーエンシュタウフェン王家の居城だったシュタールエック城で、12世紀に建てられ、30年戦争の時に破壊されたが、修復されその後17世紀にフランス軍に破壊され廃墟となってしまう。現在は修復され、ユースホステルとして利用されている。
中州に建つのはプファルツ伯の砦、略して「プファルツ」と呼ばれる、川の通行税をとるための税関だった所。14世紀に築かれた頃は、真ん中の五角形の塔だけしかなかったが、後に舟のような形の外側部分が補強された。この砦のある中州に渡る舟が次に停まるカウプからでている。
右岸にある町は10世紀からの古い町、カウプ。ライン川に面して立てられている立像は、ブリュッヒャー元帥のもの。ブリュッヒャー元帥は、ナポレオンの軍隊が退却する際それを追跡し、この場所で舟を使い対岸へ橋を渡した。約10万もの兵隊がその橋を渡り、ナポレオン軍を追跡したといわれている。それを記念してここにその像が建てられている。その対岸にある町オーバーヴェーゼルには優美なシェーンブルクの城がある。ここから川幅は狭くなり、前方右手に有名なローレライの岩山が現れる。事故が絶えなかったというこの難所を過ぎると次の船着き場、ザンクトゴア(KDラインの場合)の丘の上にラインフェルス城、また右岸にカッツ(猫)城マウス(ねずみ)城と古城が続く。



ライン川の歴史

BC1c

ライン川は古代から水運に利用されていた。
紀元前55年にはカエサル率いるローマ軍がこの川を渡り、ゲルマン人を追い出している。<カエサル著、ガリア戦記>
ローマ軍は川を北上しケルン、マインツ等の植民地を建設した。ローマ人はライン川づたいに北上して、ついには海を越えてブリタニアをも征服するにいたるのだが、大陸においては、ライン川の右岸にはいぜんゲルマン人がいて、ローマ帝国はその侵入に備えるため、ビンゲン(Bingen), ボッパルト(Boppard), コブレンツ(Koblenz), ボン(Bonn)等にいくつかの城塞を築いている。ライン川沿岸には、ケルンを始め、このようなローマ支配の歴史の遺跡が多く見られる。
紀元前9年頃、ローマ皇帝アウグストスはこれらを起点として、ゲルマン人をエルベ川の方まで追い散らすが、アウグストスの死後、後を継いだティベリウスの時代、勢いを盛り返したゲルマン人は再び攻めてきた。ローマはドナウ川上流からライン川を結ぶ線まで後退する

1c

1c末ドミチアヌス皇帝の時にこの線(ドナウ河畔のレーゲンスブルクの少し上流から、ライン河畔のコブレンツの少し下流)に全長548キロに及ぶ境界城壁が造られる。これはリーメスと呼ばれ、「限界」を意味する「リミット」の語源となっている

3c

2c頃から行われ始めたキリスト教伝導により、ケルンとトーリアに司教区ができる。この地はその後、世俗的権力(国王・諸侯)と一体となってドイツにおけるキリスト教の拠点となる。
しばらく平和が続いたが、260年頃ゲルマンのアレマン族が勢い盛んになり、境界城壁を突破してきた為、ローマ人はライン川左岸を撤退しゲルマン人に明け渡すことになる

4c

ライン両岸のローマ支配が終わり、歴史上有名なゲルマン民族の大移動が始まる。

8c

8c末ライン西岸に住み着いたフランク族はカール大帝のもとで最盛期をむかえ、遥か東のエルベ川まで支配地を広げていった。

11c
~17c

ライン川は中世の800年間を通じて、帝国領域の中央を流れ、ヨーロッパの南北を結びつける重要な交易路であった。沿岸には都市が発達し、都市の間に同盟が結ばれた。川の通行税という利権をねらって、近隣の諸侯はこぞってラインの流域に進出した。14cには税関の数が60あまりにも達した。

19c

17c半ば以降、自然国境論を唱えるフランスの進駐により、ラインは国境の川となった。上流のアルザス・ロレーヌ地方、中流域の西岸もフランスに併合されてしまう。
1870年プロイセンは普仏戦争に勝利しアルザス・ロレーヌを取り戻す

20c

第1次世界大戦後のヴェルサイユ条約によってアルザス・ロレーヌは再びフランスに戻され、ライン沿岸は非武装化される。ヒトラーの時代に、今一度ラインはドイツの川となり、1945年ドイツ軍はレマーゲン鉄橋1つを残しラインにかかる22の橋すべてを破壊したが、押し寄せる連合軍を止めることはできなかった