ミラノの概要・歴史

人口140万人のローマに次ぐイタリア第2の都市。ロンバルディア州の州都。都市の面積は小さく、ドゥオーモを中心に半径8キロの範囲で、そこに企業数10万を越す、経営、商業、金融の活動が集中している。

BC4世紀 ケルト人が町を開く
BC1世紀 BC222年、ローマ人に征服され、メディオラーヌム(「平野の真ん中」という意味のケルト語をラテン語に直したもの)という旧名で呼ばれる
3世紀 3世紀末、ディオクレティアヌス帝の4分統治策により、ローマ帝国が東西に分けられ、ミラノが西の正帝の本拠地となる

4世紀
313年コンスタンチヌス帝によりキリスト教を公認する「ミラノの勅令」が公布される374年聖アンブロシウス(ミラノの守護聖人)が人民によってミラノ司教に選ばれた
5世紀 402年ホノリウス帝により首都はラヴェンナに移される
6世紀 569年ランゴバルト族が荒廃したミラノに入ってくる
11世紀 11世紀中頃コムーネ(自治都市)が成立
12世紀 1162年神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ1世により城壁を取り壊される。
1176年レニャーノでの戦いにより、皇帝軍を破る
13世紀 1260年頃豪族トリアーニ家が全権を握り、1277年にヴィスコンティ家に倒されるまでその支配下に置かれた
14世紀 1277年〜1447年までヴィスコンティ家のもと町は繁栄し、近隣のコムーネをその支配下に置き領域を拡張した
15世紀 1447年ヴィスコンティ家が絶えると共和制が復活するが、3年しか続かなかった。ヴィスコンティ家の娘婿であった、フランチェスコ・スフォルツァが権力を握る

15世紀末、スフォルツァ家のルドヴィコ・イル・モーロ(色が黒かったのでイル・モーロとあだ名で呼ばれた。モーロとは北アフリカのイスラム教徒のこと) は武力でミラノ公国の支配を勝ち取った。彼のもと商工業が発達し、手工業やアルプス以北の都市との交易、潅漑が整備されたロンバルディア地方の農業が盛んとなり、ヨーロッパ有数の豊かな地域となる。ブラマンテやレオナルド・ダ・ヴィンチが招かれミラノに作品を残したのもこの頃である
16世紀 フランスのルイ12世がヴィスコンティ家出身の祖母を持つことで公位継承権を要求し攻めてくる。ミラノは占領と返還を何度か繰り返し、1535年から170年に及ぶスペインの統治下に置かれる
18世紀

スペインの王位継承戦争が始まり1706年からナポレオンの時代をのぞき、オーストリアの支配下に置かれる。女帝マリア・テレジアの支配の下、イタリア人官吏たちにより啓蒙専制主義による改革が押し進められた

1797年ナポレオンによるチザルピーナ共和国の首都となる

19世紀

1805年〜1814年にはナポレオンによるイタリア王国の首都となる。
ナポレオン失脚後、1814年のウィーン会議により、ヴェネツィア・ロンバルディアはオーストリアの領土となる。これにより1866年までミラノはオーストリア帝国の支配下に置かれた

1861年イタリア王国建国(首都トリノ)、ミラノは1866年に統合される

20世紀 第二次世界大戦以降、都市は周辺の町を吸収し発展した
1948年イタリア共和国誕生