観光スポット


スクロヴェーニ礼拝堂      <内部は撮影禁止> 
Cappella degli Scrovegni  

市立博物館の中庭を抜けて礼拝堂へと向かうが、ここは現在アレーナ市民公園となっていて、BC1世紀のローマ時代に作られた円形劇場の中に位置する。中庭にはローマ時代の遺跡が置かれている。礼拝堂は別名アレーナのマドンナと呼ばれている。

建立者エンリコ・スクロヴェーニはダンテの「神曲」にも歌われた悪名高い高利貸しレジナルドの息子である。レジナルドはダンテの「神曲」地獄編第17歌61-73の中で「牝豚模様の財布(スクロヴェーニ家の紋章)を握り、口をゆがめてまるで牛が鼻をねぶるようにぺろりと舌なめずりをした」とその姿が書かれている。実際のレジナルドは人々から尊敬されていた立派な人物だったようだが、お金が子供を生んではいけないと言う聖書の教えから、当時お金を貸して利息を取る金貸しは罪人であるとされ、これを職業とした者は聖体拝領にあずかることもできず、贖罪を受けずに死ねばキリスト教徒として埋葬されることも許されなかった。エンリコ・スクロヴェーニは父親の罪を浄化するためと一族の魂の救済のためにこの礼拝堂を作らせた。建造は1300年頃からはじめられ、1305年3月25日の聖母マリアの祭日に献堂式が挙げられた。建物はロマネスク・ゴシック様式のシンプルな造りだが内部はジョットと彼の弟子達によって描かれたフレスコ画で覆われている。祭壇にはジョバンニ・ピサーノの聖母像が置かれ、エンリコ・スクロヴェーニとその妻の墓がある。

装飾は左右両壁が4段に分けられ、上から聖母マリアと救世主イエス・キリストの物語が3段に渡って展開し、最下段には単色画による「善徳と悪徳」の寓意像各7面、内陣の壁門に「天使の派遣と受胎告知」そして、入口の壁面に最後の審判が描かれている。天井は2つに分けられ星をちりばめた紺青の空にイエス、マリア、聖人などの胸像が5つづつ描かれている。この礼拝堂の特色はこれらの壁画をひと目で見渡せるところにある。これらの壁画はジョットの真作として認められており、細かいところを見れば弟子の手が入っているが、筆の相違が目立つことなく表現に統一性がある。

ジョットはルネッサンス幕開けの人と呼ばれるが、ルネッサンス後の絵画を知っている私たちにはその偉大性がよく理解できないかもしれない。ジョットはスクロヴェーニ礼拝堂の制作にあたり、新しい技法(フレスコ画)と新しい表現(それまでの平面的だった絵画に遠近法を用いて奥行きを出し、絵画に描かれる人間像をそれぞれの明確な性格の対比や感情、それに伴う身ぶりや表情を用いて人間ドラマにまで高めている。人間がより人間らしく、神もまた空の上の存在と言うよりより人間に近づいた存在として描かれている)を用いている。ここに残された壁画はジョットの仕事の中でもまた美術史上においても大変重要なものと評価されている。
壁画を見ていく上で登場人物の視線に注意していくと、ジョットの特長ともいえる切れ長の目と鋭い視線が多くを語りかけてくるようでおもしろい

ジョット Giotto di Bondone 1266頃-1337
イタリア、ルネッサンス初期の画家・建築家。フィレンツェもしくはその近郊で生まれ、チマブエの弟子と言われる。アッシジの聖フランチェスコ聖堂の壁画「聖フランチェスコの生涯」(全28枚)の中の「小鳥に説教する聖フランチェスコ」など数枚が彼の手になるとされる。フィレンツェ、ローマ、ナポリ、アヴィニョン、パドヴァ、ラヴェンナなどで活躍。ダンテと親交がありその作品「神曲」の中で讃えられている。1334年フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の造営主任に選ばれ、鐘楼の設計図を残したが、完成を待たずに没した。遠近法や解剖学的効果を画面に実現することで、ビザンチン様式を抜けだし、フィレンツェ派の基礎をおき、イタリア、ルネッサンス幕開けの人と言われる。

<ガイドさんの説明は主に描かれた絵の内容についてとなる。マリアの両親ヨアキム(ヨハネ)とアンナの物語から始まり、イエズスの受難、復活そして聖霊降臨までの新約聖書の物語へと続く。細かく1枚1枚絵の説明をする必要はないが、どの絵かに絞ってジョットの絵の特長を説明できたらと思う>

壁画の説明をご覧になりたい方はここをクリックして下さい。



エレミターニ教会 Eremitane

ロマネスク・ゴシック様式の教会で、1276年から1306年にかけてフラ・ジョヴァンニ・デッリ・エレミターニによって建てられた。木製の天井と外側の柱廊が美しい。1944年に空爆を受け、戦後修復されたもの。
見所は後陣にあるオヴェターリ礼拝堂の壁画。1448年にアントーニオ・オヴェターリの遺言によって未亡人が制作させたもので、アンドレア・マンテーニャなどのフレスコ画が残されている。マンテーニャの作品は若い頃の傑作で、「聖クリストフォルスの物語」「聖大ヤコブの殉教」「聖母被昇天」の3枚が描かれていたが空爆の際に大きな被害を蒙り、戦後に断片を集めて修復された。

アンドレア・マンテーニャ Andrea Mantegna 1431-1506
イタリア初期ルネッサンスの画家。パドヴァのスクァルチョーネに師事して古代彫刻を研究し、ドナテッロや、フィリッポ・リッピ、パオロ・ウッチェッロなどのフィレンツェ派の芸術家達から透視図法による正確な空間描写や彫刻的な量感表現を学んだ。ヴェネツィア派のヤコポ・ベリーニの娘婿となりヴェネツィア派の色彩描法もその絵画に採り入れた。1460年にはマントヴァの宮廷画家となり、マントヴァ公居城に多くの傑作を残している。また、銅版画はデューラーに影響を与えている。



パドヴァ大学 Universita

この場所にBo(ボー)という名のホテルがあったことから別名Boとも呼ばれている。1222年の創立で、イタリアでボローニャ大学に次いで2番目に古い大学である。15世紀になってパドヴァがヴェネツィアの支配下に置かれると共和国唯一の大学として手厚い保護を受けるようになった。自由で世俗的な雰囲気の中、医学や自然科学の分野ではヨーロッパ随一の名声を得ていた。15世紀〜17世紀にかけて、その名声を伝え聞いた学生達が全ヨーロッパから集まり、コペルニクス、W・ハーバーが学び、ガリレオ・ガリレイやダンテやペトラルカがここで講義を行っている。
建物は1500年代のマニエリズム様式。最も古い面影を残す中庭は、イオニア式とドーリア式の列柱回廊で囲まれ、内部の壁面にはここの学生となった公爵の息子達が残した彼らの家紋が飾られている。
中庭の階段を2階へと登ると、テアトロ・アナトミコ(解剖学の劇場)と呼ばれる楕円形の階段教室がある。ここは250人を収容する、1594年に作られた世界で最も古い解剖学の教室で、1872年まで使用されていた。死体の冷凍ができなかった当時、解剖は冬場だけ行われた。その隣にあるアウラ・マーニャ(大教室)と呼ばれる部屋には沢山の紋章が飾られている。ガリレオが使った教壇が残されているのは、サラ・デ・クゥアランタ(40年代講堂)と呼ばれる部屋である。1564年にピサで生まれたガリレオ・ガリレイは20才という若さでパドヴァ大学に招かれ、18年間の長きに渡りここで数学を教えた。グループの場合は事前に見学の申し込みが必要となる(Ascom Guide - Tel 8209711)。夏期は火曜の9・10・11時。水・木・金曜の15・16・17時にガイド付き見学がある。料金5.000リラ <ツアーでは通常、中へは入らない>



ラジョーネ宮 Palazzo Ragione

別名サローネと呼ばれ、13世紀の初めにパドヴァの行政府の法廷としてたてられた。14世紀に改築され木組みの舟底のような天井を鉛の板で葺いた。1420年に火災にあい、内部は1つの大広間(サローネ)に改築された。27x80mという広い造りは現在、展覧会や催し物の会場となっている。ツアーでは通常外観のみの見学で中へは入らないが、有料で2階の広いサロンを見学できる。<9時〜19時、月曜、祭日休み、料金7.000リラ> サロンは火災以前にはジョットやメナブオイの描いた14世紀の壁画で飾られていたが、現在残されているのはニコロ・ミレートやステファノ・ダ・フェッラーラなどによる15世紀の壁画である。


エルベ広場 Piazza delle Erbe

ラジョーネ宮をはさみ、北側にエルベ(野菜)広場、南側にフルッタ(果実)広場が位置する。ラジョーネ宮の1階部分も50以上の肉やチーズを売る店が建ち並び、広場は毎朝近郊でとれた新鮮な野菜、果物、海産物が売られる、食料品の市場となっている。エルベ広場にある泉は1930年につくられたものだが、この泉の辺りからラジョーネ宮をバックに写真を取ると良い。



カフェ・ペドロッキ Cafe Pedrocchi <現在修復中

1831年開業の歴史あるカフェで、誰が言ったか知らないが、イタリア3大カフェの一つといわれている(後の二つはローマのカフェ・グレコと、ベネツィアのカフェ・フローリアン)。入口に2頭のライオン像のあるネオ・クラシック様式の建物で、コーヒーの輸入業者ペドロッキ氏がつくったもの。当時パドヴァには6.000軒ものカフェがあったそうだ。昔は24時間中開いていたので閉めるべき門が必要ないと言われ「門のないカフェ」と呼ばれており、実際ドアのないガレリアだった。かつて文化人のたまり場であり、大学関係者には議論の場であった。ナポレオンの支配後ウィーン会議でこの一帯はオーストリア領となるが、イタリアの国旗をなぞらえ、白の間、緑の間、赤の間のサロンがつくられ、オーストリアに対する独立運動の舞台となった。その時に打ち込まれた銃弾の後が今も建物に残されている。この歴史的カフェは1891年にペドロッキ氏からパドヴァ市に遺贈された。以来約100年の間、パドヴァ市のもと建物の管理とカフェの経営がなされている。パドヴァ大学の前に位置し、現在は大学で博士号をもらった誕生したばかりの学士が、祝福の月桂樹のレイを付け、家族や友人と供にここでコーヒーを飲むのが習わしとなっている。



サンタントニオ教会 S. Antonio

1231年聖アントニウスが亡くなり、その遺体を奉るため1232年に、工事が着工され16世紀に完成した。イル・サント(聖なる地)と呼ばれ、イタリア国内でも有名な聖地である。
聖アントニウスは1195年頃リスボンで生まれ、後にイタリアに来てアッシジの聖フランチェスコの弟子となった。聖フランチェスコも彼のすばらしい説教に感激し、友としても敬愛したという。1231年に36才という若さで亡くなるが最後の2年間はここパドヴァで過ごした。高徳を慕われ、死の翌年には早くも聖人に列せられ、パドヴァの町の守護聖人として崇められている。

建物はヴェネツィアのサンマルコ寺院によく似たビザンチン風の8つのクーポラの屋根をも持ち、イスラム教のモスクの尖塔に似た小さな塔や、八角形の2つの鐘楼が東洋的な雰囲気をかもし出す。正面は二重構造の壁をもつロマネスク様式、建物を支えるための腕を伸ばしたような梁の部分はゴシック様式というように、ビザンチン、ロマネスク、ゴシックの3つの様式が取り入れられている。

教会前の広場はサント広場(聖なる広場)と呼ばれ、1453年に作られたドナテッロの最高傑作といわれる「ガッタメラータの騎馬像」が高さ8mの台座の上に置かれている。<台座の部分もドナテッロの設計>
ガッタメラータは本名をエラズモ・ダ・ナルニというヴェネツィアの傭兵隊長で、鋭く、抜け目のない人物だったために<ガッタメラータ=トラ猫>の愛称で呼ばれた。騎馬像は故人を追悼して遺族がドナテッロに制作を依頼した。彼の墓はその遺言により、サンタントニオ教会内部のガッタメラータ礼拝堂に設けられている。

ドナテッロ Donatello 1386-1466
ドナテッロは15世紀初めのフィレンツェで、ブルネレスキやマサッチオとともに新しい表現を目指した芸術家の一人で、古代彫刻の研究と鋭い写実主義、幾何学的透視図法を用いてゴシック様式を抜け出した最初の彫刻家である。
1443年から1453年までの10年間をここパドヴァで過ごし、北イタリアのルネッサンス形成に大きな影響を与えている。この「ガッタメラータの騎馬像」の制作にあたり彼は古代ローマのマルクス・アウレリウス帝の騎馬像や、ヴェネツィアのサンマルコ寺院にある、4体の馬のブロンズ像を参考にしたといわれている。多くの技術的困難を克服して堂々たる騎馬像を制作し、彫刻における初期ルネッサンス様式を確立した。教会内部には騎馬像の前に制作にあたった、大小29もの浮き彫りを含めた彫刻が、彼とその弟子達によって残されている。

教会内部へ
ここは法王庁直轄の教会で、内部は治外法権となっている。中に入り左側廊を進むと聖アントニウスの遺体を収めた礼拝堂がある。4本の円柱が5つのアーチを支えたルネッサンス様式で16世紀にヴェネツィアの主任建築家として活躍した、ヤコポ・サンソヴィーノや諸彫刻家達による浮き彫り彫刻が残されている。
この礼拝堂と向かい合った右側廊にはサン・フェリーチェ礼拝堂がある。ここには14世紀後半にヴェローナやパドヴァで活躍したアルティキエーリの「クラビーホの戦い」「磔刑」などの壁画が描かれている。
内陣の主祭壇はドナテッロ制作のブロンズの十字架像を中心にした祭壇である。祭壇前飾りと飾り台には音楽を奏でる天使達と聖アントニウスの奇跡を描いたレリーフが残されている。
聖アントニウスは生前から数々の奇跡を残している。その中でも有名なのが「跪くロバの奇跡」で、主祭壇を飾るドナテッロの浮き彫りパネルにも描かれている。<ある異教徒が「カトリックの聖体であるパンとぶどう酒の前にロバが跪かなければ自分はそんなものは信じられない」と豪語した。それを聞いた聖アントニウスがご聖体の前にロバを連れてくると、ロバがその場に跪いた。異教徒は奇跡を目の当たりにしてすぐに改宗した>という奇跡である。亡くなった後も聖アントニウスを奉るこの教会では数々の奇跡が起きているという。彼は熱病や疫病から人々を守り、失くし物を見つけてくれる聖人として、今日もなお、人々の根強い信仰を集め、この墓所に巡礼にやってくる人が絶えない。
祭壇飾り台の更に上部には「磔刑」、聖母子と諸聖人像。祭壇後ろには石造りのキリスト降架。祭壇左側にはアンドレア・ブリオスコが1515年に作ったブロンズの燭台が置かれている。

入り口付近には(扉の上)ピエトロ・アンニゴーニの「胡桃の木の上で説教する聖アントニウス」がある。アンニゴーニは1910年にミラノで生まれ、何年か前に亡くなったフレスコ画の巨匠で、教会内には彼の作品が何点か残されている。左側廊の最初の礼拝堂には、アンニゴーニによって描かれた、コルベ神父の祭壇画がある。コルベ神父はナチスドイツのユダヤ人虐殺の際、ガス室に送られる人の身代わりになった神父として崇められている。



プラート・デッラ・ヴァッレ Prato della Valle

1775年に整備されたイタリアで一番広い円形の広場。18世紀にはここに小劇場テアトロ・デル・レチントがあり、オペラが上演されていた。今は中央に樹木が植えられ周囲は小運河で囲れており、その水を眺めるかのようにダンテ、ペトラルカ、ガリレオらパドヴァゆかりの文化人たち100人の大理石像が立っている。ローマ時代にはこの場所が街の中心であった。中世期には馬上槍試合の競技場として使われた。現在は毎月第3日曜に骨董品の市が開かれたり、様々なイベントの会場として利用されている。



大聖堂 Duomo

大聖堂は中世初期にその基礎が築かれたがその後何度か再建され現在の建物は16世紀のもので、ファサード(正面)は未完成のままである。内部は力強い柱だけで飾りのない、レンガを積み上げた粗けずりな造りである。

洗礼堂 Battistero

隣接する洗礼堂は13世紀に建てられたロマネスク様式の建造物。正方形の建物に筒形の大きなクーポラがのる。内部は中央に1260年当時のままの洗礼盤が置かれ、壁面、天井を覆い尽くすようにジュスト・デ・メナブオイの洗練されたフレスコ画が描かれている。メナブオイもジョットと同じフィレンツェ出身の画家で、14世紀の末に描かれた壁画には明らかにジョットの影響が見られる。円蓋には巨大なキリスト像を中心に諸聖人が同心円状にぎっしりと配列され、円蓋の周辺から下にかけて、やはりメナブオイの手による、旧約・新約聖書の諸場面が描かれている。


サンタントニオ信心会 Scuola di S. Antonio

サンタントニオ教会に隣接する小さな教会。スクオーラはイタリア語で学校を意味するが、ここでいうスクオーラとは救済活動や礼拝、集会を行っていた友好団体を意味する。ここのスクオーラは聖アントニウスの死後に創設され、現在も活動が続けられている。建物は1階部分が15世紀初めに作られた教会、2階部分が16世紀初めに作られた集会所となっている。教会にはアルティキエーロとその弟子達によるフレスコ画が描かれている。2階の集会所には16世紀のヴェネツィア派の画家達によるフレスコ画が残されている。特に見落とせないのは若きティツィアーノ(23才の頃)の最初の傑作と言われる作品4点(入口を入り右手の2点と、左の角の2点)で、ティツィアーノのフレスコ画としては現存する唯一の物である。


市立博物館 Museo Civico

スクロヴェーニ礼拝堂に隣接する博物館(開館時間はスクロヴェーニ礼拝堂を参照)。1階にローマ時代の考古学室、2階に絵画館とボッタチン博物館がある。ボッタチン博物館は19世紀の絵画コレクションや貨幣や家具などのコレクションが展示されている。必見なのは絵画館で14世紀〜18世紀のヴェネツィア派絵画が多数展示されている。