ペルージアの歴史

BC9世紀
鉄器時代
エステ=ヴィッラノーヴァ文化
ウンブリア人の侵入
エトルリアの都市建設
BC4世紀 エトルリアの12都市国家連合(ドデカポリス) の中心となる。
BC3世紀 ローマと敵対したり、友好関係を持ちながら同盟都市として存続

BC1世紀
BC40年、オクタヴィアヌスとアントニウスが争った同盟市戦争の際、アントニウスをかくまった為オクタヴィアヌス軍の攻撃を受け町は半ば破壊される。
ローマ皇帝となったアウグストゥス(オクタヴィアヌス)によって町が再建される。
4世紀 ローマの衰退後、キリスト教が広まる。
5世紀後半 最初の教区が置かれる。

6世紀前半
ゴート族の侵入
568年ビザンチン帝国に編入。町は地の利を生かして繁栄する。
11世紀 自治都市として独立。近隣都市を従え、地位を確立
この地方を狙う教会勢力や皇帝勢力とは友好関係を強調した政策を採る。
12世紀 1186年神聖ローマ帝国皇帝ハインリッヒ6世により最高行政官の任命を認められる。法王イノケンティウス3世により、この権限が追認される。
この頃ペルージアでは5回ものコンクラーヴェ(法王選出選挙)が行われている。この事は当時の教会勢力との友好関係を表している。
13世紀 エトルリア、古代ローマの古い城壁が拡張され、プリオリ宮殿周囲の道路網が整備される。大聖堂、サン・フランチェスコ、サン・ドメニコ、サンタコスティーノ教会の建設が行われたのもこの頃である。
14世紀 内戦、内紛の時代
自治都市としての最盛期を迎えたペルージアの支配を狙い、法王ウルバヌス5世が1370年に法王代理としてクリューニ修道院長を送り込むが、数年で追放される。その後の数年間、貴族階級(ベッケーリーニ)と庶民階級(ラスパンティ)の争いが続くが、行政官(シニョーレ)を置くことで納まった。
15世紀 数代に渡るシニョーレと、次に登場した傭兵隊長のもと、暫く平和が続くが、これに続く数十年はオッディ家とバリオーニ家の抗争が続き、最終的にバリオーニ家が勝利する。バリオーニ家は有能な傭兵隊長を抱え、教会勢力に備える一方、ペルージアの自治体制を存続させた。
カピターニ・デル・ポポロ館、サン・ベルナルディーノ祈祷室などのルネッサンス建築がこの頃建てられた。
16世紀 法王パウロ3世の時代、法王による塩への課税に対して、塩戦争が起こる。1531年にバリオーニ家のマラテスタ4世が死去すると、パウロ3世は町を占領し直接支配を行う。1540年法王はバリオーニ家の邸宅の跡に壮大なパオリーナ(パウロの)城塞を町を見おろすように建てさせた。
17・18世紀 その後、300年に渡り、ナポレオンの時代(1805-1814年) のわずかな期間を除いて、ペルージアは法王の統治下に置かれる。
19世紀 1848年自由に目覚めたペルージアの人々によって、法王の権力の象徴であったパオリーナ城塞の解体が始まる。
1859年イタリア統一軍に呼応して蜂起するが失敗に終わる。
1860年ヴィットリオ・エマヌエーレ2世軍によって法王からの独立を果たす。
20世紀 近代的な地区が丘の麓にできあがる。
1921年ペルージア外国人大学設置される。