トスカーナ州シエナ県、標高324m、フィレンツェの西南約54Kmに位置する、人口約7.000人の小さな村。中世に建てられた数多くの塔が今でも残ることから「美しき塔のサン・ジミニャーノ」と呼ばれ、中世の面影を色濃く残す町である。
その地名は387年に亡くなったモデナの司教「聖ジミニャーノ」の名に由来する。聖ジミニャーノの聖遺物「指と指輪」がこの町にもたらされ、現在のドゥオーモの元となった御堂に安置された。この聖遺物に病気の治癒を祈願したり、旅の安全を願う巡礼者達が多く訪れたという。御堂の回りに人家が建ち始め町ができた。
ローマとロンバルディア地方そしてその先のフランスへと続く道、フランチジェーナ街道がここでピサーナ街道と合流しており、町は通商路として発展していく。927年ヴォルテッラの司教がフランク族のイタリア王ウーゴからこの町を領地として与えられ統治するが、ヴォルテッラの司教の圧制に反発した住人達が決起して司教配下の兵士を追い払い、1150年コムーネが結成される。当時の町は城壁で囲まれた直径150m程の小さな町であった。
13世紀初頭、城壁は全長217mの現存する大きさに拡張されている。町はその地の利を生かし通商、手工業、金融業などで発展していく。特に町の特産サフランはピサ、ルッカ、ジェノヴァ遠くはフランスやネーデルランド諸国まで輸出され町の繁栄に一躍かった。この13世紀から14世紀にかけてがサン・ジミニャーノの全盛期である。
全盛期のサン・ジミニャーノは、東西約350m、南北約700mという小さな町の中に、72本もの塔が乱立していた。当時北部・中部イタリアの多くの都市では貴族の権力の象徴としてこのような塔が建てられていた。皇帝派(ギベリン)と法王派(グエルフィ)の闘争が繰り返される中、貴族間の武力闘争の際に高い塔は見張りにも敵を上から攻撃するのにも有利だった。サン・ジミニャーノは1204年、皇帝に忠誠を誓いギベリン派を維持していたが、1289年以降グエルフィ派となり、フィレンツェ大使としてダンテ・アリギエールが派遣されている。人々は権力と栄光のシンボルとして多くの塔を建設したが、1311年以降法令により公的にも私的にも塔の建設は禁止された。
14世紀に入り内政の混乱、飢饉そしてペストの流行などでその経済は突如として衰退し、1353年町はフィレンツェ共和国の統治下に置かれる。
16世紀頃から通商の流れが変わる。上り下りの坂が多いフランチジェーナ街道に代わり、現在の国道67号線、429号線にあたる通商路が主流となる。サン・ジミニャーノは街道からはずれた田舎町へとなり、経済的発展から取り残されてしまう。しかしそのおかげで町は中世の面影がそのまま残されることにもなった。
アッシジの聖フランチェスコの半生を描いた映画「ブラザー・サン シスター・ムーン」(1972年、F・ゼフィレッリ監督)は、観光客の多いアッシジでの撮影が出来ず、中世の町並みが残るこの町で撮影されている。
サン・ジミニャーノになぜ多くの塔が残されているか?
他の都市では町の発展に伴い城壁内の狭い土地を有益に活用するのに塔は無用であり、妨げたなった為に殆ど取り壊されてしまった。しかし町を建て直すほどの経済力がなかったこの町では、町の改築をすることもできなかったし、フィレンツェに隷属する貧しい田舎町となり敵から攻められて町を破壊されることもなかった。最盛期には小さな町に72本もの塔が林立していたサン・ジミニャーノだが、時代とともに老朽化した塔はその多くが壊され、1580年には25本に減っている。しかし古いものを大切にする精神を持つサン・ジミニャーノの人々は、痛んだり崩れた塔を修理、再建する法律を17世紀に作り塔を保存する。現在では14本(基盤部分のみを残す塔を数に入れるかなどでその数え方は資料によってまちまちである)の塔が残されている。 |
|