シエナ
パリオが行われた最初の記録は、1147年の8月16日です。以来毎年2回、シエナに聖母マリアが出現したとされる7月2日のプロヴェンツェーナの聖母の祝日と8月16日の聖母被昇天祭に裸馬にまたがった騎手がカンポ広場を3周する競馬競技が行われます。といっても普通のお祭りや競馬を想像してはいけません。パリオはシエナの人々にとって、この年2回のパリオのために一年があるといってもいい程の、地域に密着した熱狂的なお祭りなのです。
シエナの旧市街は現在17のコントラーダと呼ばれる地区に分割されています。コントラーダは12世紀末から13世紀初めに整備された小地区の税金を集めたり、治安を守ったり施設の管理を行う機関で、教会を中心に組織されたものでした。当初42あったコントラーダは、時と共に数を減らし、行政的な役割が薄れると競技開催が主な役割となっていきます。
パリオに参加できるのは17のコントラーダのうちの10だけです。10のうち7つは、前年出場できなかったコントラーダで、残りの3つは抽選で選ばれます。各コントラーダは、ゾウとか亀とかカタツムリ、森林、貝殻といったようなそれぞれの名で呼ばれ、そのシンボルを旗印にしています。5月の最終日曜に、パリオ競技最初の行事である抽選が行われ、7月のパリオに出場するチームが決まります。この日は朝からカンポ広場の市庁舎の2階に参加が決まっているチームの旗が揚げられます。残りの3組の抽選は夕方に市庁舎の一室で、市長と各隊長によって行われ、抽選の度に選ばれたコントラーダの旗が2階に、落選したコントラーダの旗が最上階に揚げられます。広場には大勢の住民が集まり、旗が掲示される度に歓声や失望の声が上がるのです。7月のパリオと8月のパリオは全く独立したもので、8月の分は7月のパリオの次の日曜に出場チーム決定の抽選が行われます。運が良ければ1年に2回走れるし、運が悪ければ1度も走れないことになります。
パリオの6日前に馬場作りが2日がかりで行われます。カンポ広場にはおよそ600トンの土を運び込んで石畳の上に敷き詰めていきます。この土はこの地方でとれるトゥーファと呼ばれる凝灰岩の土で、雨が降っても水をほとんど中に通さない性質です。1600年代から1700年代のパリオで使われたものを毎年繰り返し利用しています。馬場が完成した翌朝早く、広場で30頭の馬の試し乗りが行われます。この30頭は獣医の厳重な審査をパスしたパリオ出走候補の馬です。この中からパリオに出る10のコントラーダの隊長達が協議をして出走する10頭の馬を決めます。カンポ広場で10頭の馬とコントラーダの組み合わせ抽選会が行われます。10頭の馬の番号を入れた箱を左に、参加の決まった10のコントラーダの名前の入った箱を右側に置き、市長が組み合わせを抽選します。この抽選結果は、地元のテレビ局も生中継するほどの熱の入れようです。この瞬間から馬が負傷したり死んでしまっても、代理の馬をたてることは出来ません。地区の馬の世話係バルバレスキが馬を受け取り、住民と共に各コントラーダの馬小屋まで馬を連れていきます。前評判の良い馬にあたったコントラーダの住民は歓声を上げながら、評判の悪い馬にあたったコントラーダの住民は失意におし黙りながら歩いていきます。この日から4日間馬はコントラーダの馬小屋で過ごします。
馬を選出した日の午後からレースまで、朝夕の計6回リハーサルが行われます。騎手を務めるのは、各コントラーダに雇われた騎手で、この日から彼らにも住民が付き添い、他のコントラーダとのかけひきがないように監視を続けます。パリオの前夜祭、恒例の壮行会が開かれます。コントラーダのスカーフを首に巻くという正装で1.000人以上の住民が集い夕食をとり、翌日の勝利を讃え敵対する相手をけなす歌を歌います。当日の朝は、シエナ大司教が、最後のリハーサルに駆け出していく騎手達のためにミサを捧げ、ミサのあと騎手達は市役所に公式に登録されます。お昼過ぎ、住民で一杯になった各コントラーダの教会では、馬と騎手のために深い沈黙が捧げられ、「行け、そして勝って帰れ」という祝福が叫ばれます。
町ではパリオの行進が始まります。パリオとは優勝旗のことで、この旗を手に入れるという栄誉のために、各コントラーダは競技を行うのです。中世の頃の衣装をまとった行列が県庁前からシエナ大学を通り、カンポ広場へと続きます。貴族末裔の騎士、ラッパ、白と黒のシエナの旗、優勝旗パリオそしてカロッチョと呼ばれる牛車が続きます。カンポ広場では競技に先立ち中世の衣装を身につけた鼓手の巧みな演奏と旗手による旗を回転させる操り芸が披露され、そのあとに騎手と馬が続きます。最後に優勝旗パリオが登場します。人々がパリオに向かって一斉にコントラーダのスカーフを振ります。こうすればレースで幸運が舞い込むと昔から信じられているからです。いよいよ競技の始まりです。各コントラーダの色の服を着た騎手にはネルボと呼ばれる乾燥した去勢牛の陰茎が渡され、これで競技中馬にむちを入れたり、他の騎手や馬を妨害します。レース中馬は突進し、騎手はあらゆる手段を使って敵と戦います。騎手が落馬しても馬が一着でゴールインすれば優勝です。各馬がスタートラインにつく直前にコース順が決められスターターがコントラーダの名前を呼びます。広場の外では中に入りきれなかった大勢の人々が中継車の前に群がっています。シエナの人々はこの日テレビの前に釘付けになります。優勝した馬と騎手には地区住民の歓喜の中優勝旗パリオが手渡され、祝福を受けるためシエナ大聖堂までのパレードが続きます。各コントラーダがそしてシエナの町が一つとなる瞬間です。夜、市庁舎の三連窓には優勝チームの旗が揚げられ、市庁舎の横に立つマンジャの塔から花火が上げられます。
このパリオに対する熱狂は私たちには量り知ることの出来ないものがあります。シエナの町を取り囲むように広がるトスカーナ州にはその大地の豊かな実りを背景に古くからフィレンツェに代表される都市国家がたくさん生まれ繁栄しました。それらの都市国家はその領有権をめぐって血で血を洗う争いを続けました。その中でも最も厳しい対立を続けたのがフィレンツェとシエナです。シエナは1260年におきたモンタペルティの戦いでフィレンツェに勝利を収めましたがそれ以降軍事的にも経済的にもフィレンツェに脅かされ続けます。シエナは町の周囲に城壁を築く一方、各コントラーダが軍事的な役割を分担してフィレンツェの脅威に備えました。コントラーダはそれぞれが槍隊、弓隊、騎馬隊などの役割を担って、お互いにライバル意識をむき出しにして鍛錬を続けました。コントラーダ間の強いライバル意識は親から子へと何百年に渡り面々と引き継がれ、このライバル意識こそがパリオに熱狂する人々のエネルギーの源なのです。コントラーダの団結は大変強く、一つの家族のような強い絆で結ばれています。コントラーダの子ども達は大勢の大人達に見守られ、育てられていきます。コントラーダの若者達はこの年2回のパリオでストレスを発散させ、非行に走ることはありません。そしてこのコントラーダが中心となって行われる中世以来の祭りパリオはシエナの人々の生活と深く結びつきシエナの人々は「パリオをやるのではなく、パリオを生きるのだ」と答えます。シエナの人々にとってパリオは生活そのもの、人生のすべてといっても過言ではないのです。
シエナ
|