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観光スポット
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サン・ドメニコ教会
San Domenico
1225年ドメニコ会の創始者、聖ドメニコ・グツマンがシエナにやってきて間もない頃に建築が始まり、1465年に完成したゴシック様式の教会。その後、火災(1443年と1531年)、軍隊による占領(1548-52年)、地震(1798年)などに見舞われ、19世紀には惨めな姿となっていたが1941年から62年にかけて修復され現在の姿となった。教会内部は信者にも説教者にも一切障害があってはならないというドメニコ修道会の規則に従い、単廊式で一つの大ホールといった感じである。
(見所は聖カテリーナを奉る「ヴォルテ礼拝堂」にある聖女のフレスコ画と、聖カテリーナの頭部が収められている「聖カテリーナの礼拝堂」である。)
→シエナの守護聖人「聖カテリーナ」
聖カテリーナの生家 Casa di Santa Caterina
(9:30-12:30,15:30-18:00 無料)通常中には入らない。
聖カテリーナの生家とその周囲に建てられたいくつかの礼拝堂から構成されている。聖カテリーナは1380年に亡くなり、1461年に聖人として列聖されシエナの守護聖人となる。1866年からローマの守護聖人に、1939年からイタリア全土の守護聖人にまつられる。この生家跡は15世紀にはすでに聖所記念堂となった。
聖カテリーナ通りに入った所は「全イタリアのポルティコ」(portico dei Comuni d'Italia) と呼ばれていて、ここから中に入る。ポルティコを奥に進み、階段を2.3段降りた左手に「台所の礼拝堂」がある。ここは聖カテリーナの生家ベニンカーサ家の台所だったところで16世紀に作られた金色に塗られた格天井やマヨルカ焼きのタイルが敷き詰められ、壁には16-17世紀に描かれたシエナ派の聖女の生涯を表した油彩画が飾られている。この礼拝堂に面して「十字架の教会」がある。ここに飾られた十字架のキリストを描いた板絵は13世紀に描かれたものでピサのサンタ・クリスティーナ教会に置かれていた。1375年ピサを訪れた聖カテリーナがこの十字架の前で祈っていたとき聖痕が与えられたとされている。
バンキ・ディ・ソプラ通り Via
Banchi di Sopra
(上の銀行通り)
現在でも金融業が盛んなこの町のメインストリートで歩行者天国となっている。いつも人で溢れている賑やかな通りであり、ロンゴバルト王国の時代(6世紀頃)に作られたフランスへ続く通商道路、フランチジェーナ街道の一部でもある。緩やかなカーブを描くこの道に沿って歩いて行くと左手にサリンベーニ広場、少し行った右手にトロメイ宮が建つ。カンポ広場の手前で三叉路になっており、左の道がバンキ・ディ・ソット通り(下の銀行通り)、右の道がカンポ広場やドゥオーモに続くチッタ通りとなる。この三叉路に建つのが「商人のロッジア」で、15世紀前半のゴシックとルネッサンスの過渡期に建てられたゴシック=ルネッサンス様式の優美な建物である。
「商人のロッジア」ロッジア・ディ・メルカンツァ
この開廊(ロッジア)は、古代にはトリヴェントゥム(Triventum)と呼ばれた都市の主要道路の出会う地点に建てられている。1417年から44年にかけてサーノ・ディ・マッテオ、ピエトロ・デル・ミネッラによって建設された。柱の上に乗る三つの大きなアーチが広い空間を作りだし開放感を与える。柱にはヴェッキエッタやフェデリーギの作った彫像が飾られている。
ここからバンキ・ディ・ソット通りを行くと右手にピッコロミニ宮が建つ。ピッコロミニ家によって1469年に建設が始められた、フィレンツェ・ルネッサンスの最も成熟した様式を見せる建物である。現在国立文書館として利用されていて、シエナ共和国のすべての通信文書や歴史文書のコレクションを保管している。博物館、書斎などのいくつかの部屋が公開されている。(8:45〜13:45、日曜、祝日休館、無料)
ピッコロミニ宮の向かいには16世紀に建てられたシエナ大学の建物がある。そのまま通りを進んでいくと突き当たりに、教皇ピウス2世によって建てられた教皇のロッジアが建っている。
サリンベーニ広場
Piazza Salimbeni
3方をゴシック、ルネッサンス、バロックという三つの様式の建物で囲まれているこの広場は19世紀末にゴシック・リバイバルの立役者といわれたジュゼッペ・バルティーニによって作られた広場である。
奥の建物がサリンベーニ館でかつては古い城塞の一部であったが、サリンベーニ家の館として建て直され、一族の追放後は市の所有となり、塩や穀物の税金を徴収する事務所が置かれていた。1866年にモンテ・デ・パスキ銀行の所有となり、建築家パルティーニによって当時流行のゴシック・リバイバルをもとに改築された。
広場に向かって右側の建物はスパノッキ館で建築家パルティーニによってもともとあった建物を模倣しながら1877-82年にかけて作られたルネッサンス様式の建物。
広場に向かって左側の建物はタントゥッチ館で、16世紀の半ばにリッチョによって建造されたバロック様式の建物。
広場の中央には1880年に制作された17世紀の会計学者サルッスティオ・バンティーニの記念碑が立つ。
3つの様式を比較すると、窓の作りにその様式の特徴がよく見られる。先のとがった尖塔アーチを持つゴシック様式の窓枠、先の丸いアーチを持つルネッサンス様式の窓枠、そして四角い窓枠のバロック様式である。現在建物はすべてモンテ・デ・パスキ銀行の本部になっており、貴重な歴史文書を初め数多くの芸術作品が所蔵されている。
ゴシック
12世紀から15世紀にかけて西ヨーロッパで流行。高い天井、大きな窓、ステンドグラス、巨大な塔などが特色。「神さまのいる天国へ」という精神。パリのノートルダム聖堂など。 |
ルネッサンス
15世紀、フィレンツェに始まった様式。古典建築の構成を尊重。明晰優美だがあまり論理的ではなく、芸術性が先行し実用性は次にまわされることが多い。 |
バロック
16世紀後半から18世紀にかけて、南、西ヨーロッパで流行。前期はイタリア、後期はフランスが中心。視覚的要素が重視され、絵画、彫刻が不可欠要素 |
サリンベーニ家
13世紀のシエナでトロメイ家などと共に力を持った一族である。シエナは1287年に九君主制「ノーヴェ体制」が発足した。これは九人の裕福な中産階級市民が2ヶ月ごとに職務を交代するもので、この政治体制の下シエナはその黄金期を迎える。しかし1340年に疫病が町を襲い、飢饉がそれに続く。そして1348年ペストの大流行により、少なくとも人口の半分の犠牲者を出すことになる。これにより町は衰退し、治安が乱れ行政が混乱し九君主制は終わりを告げる。現職の九君主(ノーヴェ)であったサリンベーニ家は共和国政府によって追放され、財産を没収された。
モンテ・デ・パスキ銀行
1472年創立のモンテ・ディ・ピエタ銀行が1624年に公立となり、モンテ・デ・パスキ銀行に改名。現在イタリアの3大銀行の一つ。従業員の51%がシエナの市民で、世界に486の事務所を持ち、各国の事務所に必ず一人シエナ人がいる。利益の50%はシエナ市に還元されており、シエナとフィレンツェの高速道路を無料で造ったり、キージ・サラチーニ宮殿の音楽学校の運営などの資金援助を行っている。サリンベーニ館にはシエナ共和国の全盛期の芸術品で長年流出していた物が銀行の尽力で買い戻され、コレクションとして集められている。 |
トロメイ広場 Piazza
Toromei
長方形に広がる広場にはシエナを象徴する「双子に乳を与える牝狼」の像を乗せた円柱(1610年作)が立つ。この牝狼はルーパ・セネーゼ(シエナの牝狼)と呼ばれ市のシンポルとして大聖堂正面入口の両側やパラッツォ・プブリコ(市役所)の角などにも置かれている。
<ここでシエナの伝承の起源について話すと良い>→シエナ伝承の起源
広場の奥には12世紀に建てられたサン・クリストーフォロ教会がある。外観は近世(1921年)に手が加えられたが教会内部の後陣は12世紀当初のものが残されている。
広場と道を挟んで向かい合って建つのがトロメイ家によって建てられたトロメイ館だ。トロメイ家はサリンベーニ家と政権を争うほど力を持っていた裕福な一族で、ダンテは神曲の中でトロメイ家のピアに詩を献じている。館の側壁にその碑文が置かれている。建物は13世紀初頭に建てられ、1270年に作られたファサード(正面)は石で化粧張りが施されており大きな2連窓が2層に連なっている。1277年に起きた大火災を逃れ、シエナで現存する最も古く気品ある建物といわれている。
キージ・サラチーニ宮 Palazzo Chigi-Saracini
道に沿って軽く湾曲したゴシック様式の長いファサードを持つ建物。13世紀の建物を基本に周囲の建物を買収しながら拡張され、都市型城塞として18世紀のサラチーニ家の所有の時代にファサード外壁を拡張し直したりして中世時代の建物に接合した。
今世紀になってこの館の最後の所有者であるキージ・サラチーニ伯爵の手で「キジアーナ音楽院」が創立され、現在も使われている。キージ家は代々芸術家を援助、特に音楽家を育てるのに熱心であった。ビバルディもここで育っている。
現在この音楽院の財政はモンテ・デ・パスキ銀行が中心となる法人組織によって支えられている。この音楽院の質の高いマスター・コース講習会、コンサートは世界的にも有名で、コンクールで選ばれた学生一人には資金援助を行っている。1993年に日本の美智子妃殿下もイタリア訪問の際訪れており、シエナ絵画を中心とする美術コレクションもある。
カンポ広場 Il
Campo
貝殻の形をした世界で最も美しいと賞賛される広場である。ここはシエナが位置する3つの丘が出会う地点で、丘と丘の谷間にあたる。広場自体も市庁舎に向かって傾斜しながら下降している。(上の道と広場との落差は場所により2メートルから8メートルで、広場自体の上と下の落差は約3メートルある。)周囲を建物に囲まれ、形が扇形そして中心に向かって傾斜しているため、まるで巨大な劇場に立っているような感じを抱く。舞台にあたるところには市庁舎とマンジャの塔がそびえ、調和のとれた眺めを作り出している。
広場の上を走るバンキ・ディ・ソプラ通りはローマと北ヨーロッパを結ぶ幹線道路、フランチジェーナ街道の一部である。元々ここはカンポという名が示すとおり、街道脇の野原で、古くから市が開かれていた。
広場の整備は1347年に完成し、多くの年代記作者の賞賛を集めることになるが、このプランが誰によるものかは分かっていない。中世イタリアの広場は一般に不規則な形をしており、このカンポ広場のようにある程度規則的な形に整備されたものは珍しく、しかも中央に敷き詰められた煉瓦と、その回りを取り囲むピエトラ・セレーナと呼ばれる、青みがかった灰色の砂岩による舗装が美しさをより引き立たせている。煉瓦の部分には白い石灰岩による縁取りと8本の放射状の筋が施され、広場を9つに分けているがこれはこの広場が造られた当時の政治体制、九君主制(ノーヴェ体制)を表している。8本の線は市庁舎の前で1つに集まり、そこに排水口が設けられていて広場の浄化にも役立っている。パリオの時には煉瓦敷きの部分は人で埋まり、回りを取り囲む石敷きの所に土が入れられ競馬競技が行われる。商業、祭事、政治とまさにここはシエナの中心である。
ガイアの泉 Fonte Gaia
広場の高い所に位置するガイアの泉は1400年から19年にかけて造られた。シエナ出身のヤコポ・デラ・クエルチャの彫刻で飾られていたが、痛みがひどくなったためオリジナルは市庁舎の中に移され、ここにはコピーが置かれている。このカンポ広場に水が引かれたのは1343年頃といわれる。中部イタリアのトスカーナ地方やウンブリア地方にはシエナ同様山の中腹に広がる山岳都市が発達した。このような所に町を築くのは何よりも安全のためであり、もう一つには、低い土地に多かったマラリアの病魔をさけるためだったといわれている。山岳都市は水の便が悪く、都市として発達していった時に市民達の前に立ちはだかったのは水の供給をどうするかという問題だった。町の中心を飾る噴水や泉は長く苦しかった水との戦いにおける勝利を記念している。ペルージアの人々は町の中心にある噴水をピサーノ父子の彫刻で飾り、フォンターナ・マッジョーレ<喜びの噴水>と呼び、オルヴィエートの人々は深さ63メートルというサン・パトリツィオの井戸を誇りとしている。シエナでは地下水道を引きカンポ広場まで水を引いてきた。この喜びに大祝祭が催され、泉にはフォンテ・ガイア<歓喜の泉>という名が付いた。
プブリコ宮殿 Palazzo Pubblico (市庁舎)
13世紀から14世紀の中頃に建てられたゴシック様式の建物。1284年に完成した最初の市庁舎は単純な石造りのファサードと、中庭によって構成された平屋建てだったが、その後の議会で改築が決まり、1310年頃には現在の姿とほぼ変わらない建物ができあがった。ファサードは大きな三連窓や両開きの窓を置き、装飾は控えめで、繊細な外観を妨げるような堅さを一切排除している。主屋の中央には最上階に聖ベルナルディーノが掲げた旗印でもあるイエス・キリストをあらわす「IHS」の3文字略語のついた大きな銅の円板がある。又、2階部分には1560年のトスカーナ大公国の時代にメディチ家の紋章がつけられた。
マンジャの塔 Torre del Mangia
塔の高さは87メートルで避雷針まで入れると102メートルになる。1348年に完成し、当時の九君主の権力の強大さを表すと共に町のシンボルにもなっている。その名は機会仕掛けになるまで鐘つき男がこの塔を「マンジャ」(食い扶持)とか「マジャグワダーニ」(食い扶持を手に入れる)と呼んでいたことによる。この愛称はシエナの人々が自らを「マンジャの影のもとで生まれた」と表現するほど親しまれてきた。
中世のシエナは「塔の都市」であった。町に立つ無数の塔は中世の人々にとって、力と気高さを象徴する最高の表現であり、現在も無数の塔が残るサン・ジミニャーノに見られるようにそれはシエナに限ったことではなかった。残念ながらシエナの塔は共和国の崩壊後に壊されて要塞を作る材料にされたりしたため現在ほとんど残されていない。大理石と黒大理石の縞模様で飾られたドゥーモの鐘楼を立てたシエナの人々は今度は町の自由と独立のシンボルとして、町中で一番高い塔を建設する。塔には昼夜数人の見張りがおり、何かあった時には火や煙の合図を出し、召集の鐘を打ちならした。そして何よりもこの塔は町中の私塔を圧する心理的、実質的力の現れであった。
サンタ・マリア・デッラ・スカラ病院
Spedale di S.Maria della Scala
もともとは救貧院として9世紀に創立されたものでヨーロッパ最古の宗教団体といわれる。10世紀には俗修道士が経営する病院となった。現在は「病院の教会」となっている。長いファサードをもつ建物は500年という長い間に増改築を繰り返し、15世紀に完成している。サンタ・マリア・デッラ・スカラ<階段の聖母>という名はドゥオーモ正面入口の階段に面しているところからついたといわれている。
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