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ガリレイ家はフィレンツェ出身の小貴族であったが、ガリレオが生まれたのは父の仕事の都合で一家がピサに住んでいた1564年のことだった。10才の時に家族とともにフィレンツェに戻るが、17才でピサ大学に入学し医学を志す。大学在学中にピサ大聖堂の天井から下がっているランプの揺れを見て、「振り子の等時性」を発見した。のちに数学・物理学に転向し、25才でピサ大学の専任講師の職を得、数学を教えることとなる。この頃ピサの斜塔から「落下の実験」を行うが、これは当時の物理学で最高権威とされていたアリストテレスの著作に反していたため認められなかった。28才から46才までの18年間、パドヴァ大学の教授となり数学を教える。その傍ら、自ら制作した望遠鏡を用いて天体を観測し、「木星の4つの衛星」「金星の公転と満ち欠け」「太陽の黒点」「月面の凹凸」などを発見し、コペルニクスの地動説を証明した。このためローマの異端審問所に召喚され宗教裁判にかけられ、地動説に関する一切の著述・講義を禁止されてしまう。それでも所信を曲げずに書き上げた「天文対話」は出版禁止となり、再び宗教裁判にかけられ投獄されてしまう。69才という年齢に達していたガリレオは地動説を唱えることを放棄させられた。判決の際「それでも地球は動く」と言ったのは有名である。晩年のガリレオは長女を亡くし、失明するという不幸に見まわれる。71才で書き上げた「新科学対話」はイタリアでの出版が許されず、オランダから出版されている。1642年1月8日77才でその生涯を閉じるが、亡くなった時、彼の亡骸は家族の墓地に葬ることも、弔辞を読むことも、碑を建てることも禁止された。現在その墓は、フィレンツェのサンタ・クローチェ教会に多くの偉人達と並んで置かれている。
ガリレオの学問は「実験によって数学上の理論を証明する」という、近代自然科学の基礎を築いた。1980年、現在の法王ヨハネス=パウロス2世によりガリレオの宗教裁判が見直され、法王庁はこの裁判の誤りを認めた。法王によりガリレオの破門がとかれたのはなんと、その死から350年もたった1992年のことである。
「振り子の等時性」
1583年のある日の夕方、ガリレオはピサの大聖堂に入った。中は薄暗く、天井から吊した大きな青銅のランプに灯がともり、大きく揺れていた。「灯をともすときに揺らしたのだな」と何気なくランプを見ている内にガリレオは気がついた。「だんだんと揺れはおさまってくるが、大きく揺れるのと、小さく揺れるのと、ランプがいって戻ってくるまでの時間は変わらないようだ」ガリレオは手首の脈を取り、時間を計ってみた。ランプは高い天井から鎖で吊されているのでゆっくりいって戻ってくる。揺れが小さくなっても脈の数はほぼ同じである。振り子が揺れて往復する時間は、振り子が揺れる幅で違うのではない。おもりの重さでもない。振り子の長さによるものだ。という「振り子の等時性」を発見したのはこの時だと言われる。
「落体の法則」
2000年前のアリストテレスに始まり、キリスト教が認める学問では、地上の世界と天上の世界はまるで違うと信じられてきた。アリストテレスはこう言った。
「地上と天上ではものの動き方の決まりが違う。地上では火は上へ行き、土は下へ行く。石を持ち上げ、手を離すと下へ動くのは石を作っている土の元素が元々中心にある土へ帰ろうとするからで、たくさんの土の固まりは少しの土の固まりよりも早く元の所に帰ろうとするから、早く落ちる」
大学の講義でこれに疑問を持ったガリレオは実験を試みる。小さな鉄の玉と大きな鉄の玉を持つと、ピサの斜塔に上っていった。294段の螺旋階段を上り、てっぺんに出ると、ガリレオは2つの玉を同時に落としてみた。地面に着いた音は1つだった。
アリストテレスはまた「地上のものは土・水・空気・火の4つの元素からできており、動き方はまっすぐ直線である。しかし天上は第5の元素エーテルでできていて動き方は太陽のようにまるく円を描く」とも言っている。アリストテレスに間違いがあると困るのは、尊い神のいる天上と罪深い人間のいる地上を分けておかねばならないキリスト教だった。
ガリレオの実験はアリストテレスの著作を批判するとして認められなかった。ガリレオが「落体の法則」を発表したのはこの実験から15年たった1604年のことだった。
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